ヤヌスは、どのように多くの顔を持っているのですか?
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博物館建築という記念碑
水嶋英治
博物館には人間同様、ふたつの顔がある。ひとつは外向きの顔であり、もうひとつは内向きの顔である。別の見方をすれば、未来への語りかける顔と過去への洞察の顔である。
見知らぬ土地の博物館を訪れるとき、建築的な第一印象によって、私たちは無意識のうちに評価してしまう。外見的な意匠だけでなく、個性や特徴を知り、博物館にはどのような内省的な顔を持っているのかを知っておく必要があるのではないか…。
神殿の創始者
ふたつの顔を持つヤヌス(Janus)。前後を同時に見届けることのできる神という。ものごとの過去と未来をつかさどる双面神は、博物館にとっても重要な意味を持つ。過去・現在・未来と流れゆく時間の中で、私たちは迷い、悩み、悶え、闘い、やがて弊(つい)える。時の権力者は有限なる命を憂い、無限なる生命に憧れ、神に祈り、自分を神格化し、神を崇める巨大な建築物を造らせた。
今日の都市の中で、モニュメントとして威厳を放つ神殿は、多かれ少なかれ、為政者と結びついているものである。神、王、皇帝、女帝、王侯貴族、今風に言えば、大統領、首長…たちは、ひたすら権力を示す巨大建造物を仰ぎ見るように、自らの地位を建築物と重ね合わせた。ナポレオンも自分の博物館を創り、ロシアの女帝エカテリーナもエルミタージュ美術館を創った。
良かれ悪しかれ、都市の記念建造物は時代の象徴であり、街に潤いをもたらす装飾品である。多くの神殿や宮殿は、現在、転用され、博物館化され、一般公開された。ルーブル然り、ヴェルベデーレ宮殿然り。近代社会になってはじめて権力者の力の象徴であるコレクションが市民開放され、公共財として位置づけられるように時代が動いていく。近代博物館は神殿から神を引きずり降し、市民に歩み寄った。否、コレクションを維持していくためには、歩み寄らざるを得なかったと言ったほうがいいだろう。
イタリア・ルネサンス期の万能人、アルベルティは『建築論』第7書の中で、「立派に手入れの行き届き、飾られた神殿は都市にとって最高の主要な装飾である」と述べている(相川浩訳、中央公論美術社)。しかし、博物館の過去思考・過去の温存性という性格は当然としても、博物館化された建築物は、ヤヌスのように過去を睨み、未来を洞察するものでなければならない。私たちは今、過去の栄華に酔い痴れることよりも、過去から何を学びとり、現代の社会にとって何に活かせるのかを問うものでなければならないはずだ。
場所論と歴史的文脈
あなたは、時間のすべての人々の時間の一部をだますことはできませんが、エッフェル塔の前の小高い丘にシャイヨ宮がある。1937年のパリ万博の際に建設された宮殿である。トロカデロ広場から見晴らしの良いエッフェル塔に向って、右に海事博物館、左に建築遺産博物館が同居している。2007年9月に開館したパリのこの建築遺産博物館(写真a)を訪れたとき、建築博物館と博物館建築の間には本質的に違いがあるのだろうかと、ひとつの疑問が私の頭の中をよぎった。野外博物館のように、歴史的建造物の集合体を博物館のひとつとして捉えるか、それとも建築遺産を用途転用し博物館として公開する場合は建築博物館と言えるのか、否か……。
「よくぞ、こんな狭い空間に、フランス各地から集めた彫像を展示したものだ。そもそも、古い教会から彫像を剥ぎとって移設できるのだろうか…」
素朴な疑問を抱きながら、順路に沿って、そぞろ歩きを楽しむ。天井から入る自然光の変化とともに表情を変えるオータンのサン・ラザール大聖堂のイヴの誘惑。驚愕と感嘆、そして溜息の連続。1997年7月に起きた火災から10年。しかし、この10年の間に、ロマネスクを代表するモワサックのサン・ピエール教会の正面入り口や、ゴシックを代表するランスのノートルダム大聖堂正面の「微笑の天使」などを展示しているのを見て、もしや、と思った。複製品であるかも知れない、と。
通常、建築の意匠や輪郭線、屋根の形状、色、外壁、窓の形など、建築の全体と細部形態とのバランス、安定感など、私たちは直感的に判断するものだ。しかし、建築物や展示されている歴史資料は現地にあるからこそ、歴史遺産(あるいは博物館)としての価値と文化的意味を持つのであって、パリの建築博物館のように、各地から収集してきた彫像を所狭しと配列しても、歴史的文脈から切り離された資料はどれほどの意味を持つのであろうか。展示物と展示物との関係性の考慮は「無い」に等しい。
パリの建築博物館の偉大なる複製空間の持つ意味は、博物館学の視点から見ると、ギャラリー・フェイクに過ぎない。存在性、あるいは場所性と言い換えてもよいが、あるべき所にあることが重要なのだ。最初に味わった驚愕と賛美の印象は、残念ながら疑念へと変わってしまった。
しかし、こう考えていくと、博物館は成立し得ないことになる。建築文化の継承という大きな使命を背負う歴史保存機関は、それでも尚、文化政策という名の下に博物館の存在を認めざるを得ないのである。
建築の一部を構成する壁画(たとえば教会のフレスコ画)は、フランスの場合、現地性を重んじる現地保存主義であるのに対し、国民性の違いのためか、スペインは保存のためならば、剥ぎ取ってでも博物館の中で守る、と聞いたことがある。実際は、保存に対する考え方とイベリア半島の気候上の条件がそうさせているのだろうが、バルセローナのカタルーニャ美術館はその典型である。 ロマネスク期の壁画を惜しみなく剥ぎとり、フレスコ画にとっては居心地の良い空調の効いた部屋に移設して展示している姿は、博物館資料の現地性という問題を私たちに投げかけているのである。
意味論と位置関係
どのように多くの人々が日常の雑誌を読むか?ところで、失われたものを近代的な科学技術で復元し、蘇らせることは可能である。新しい部分を補い、あるいは改造・改築し、用途転換して延命策を講じる例はいくらでもある。
鈴木博之は、保存計画には「新しい用途を確保してやらなければならない」と『現代の建築保存論』(2001)の中で述べている。その一方で、古びの美こそ保存の骨頂という少数意見もある。あるがまま。滅びていく姿にこそ、ものの本質が表れるという、いわゆる廃墟論擁護論者もいるのである。
いざ、廃墟の前に立つとき、少なくとも私には滅びの美を感じることはできなかった。地中海沿岸に点在するローマ遺跡の前に立つとき(写真c)、人類の英知と古代の人々の技術に感動し、美を味わうほどの余裕はなかった、というのが正直な告白であろう。反対に、人類はこれらの遺産を滅ぼしてはならないという哲学めいた考えがメラメラと心の底から燃え上ってきたのを今でも覚えている。
北アフリカ・リビアの第二の都市ベンガジから東(エジプト方面)に向かって車でおよそ4時間、キュレーネ遺跡のゼウス神殿の列柱と、今日、博物館として公開されている要塞、このいずれも鈴木の言う新しい用途を確保することは不可能である。単独で存在している歴史的記念物は、近くの建造物との関係性もないままに孤立しているし、ましてや遺跡の持つ物語性が読み取れないからである。周辺住民もいなければ、観光客も極めて少ない。時代から取り残された場所は物証としての価値はあるものの、「活用保存」以前の問題が立ちはだかっている。
べンガジからキュレーネ遺跡に向かう途中、カーシル・リビアという小さな村にあるモザイク博物館の場合は、さらに悲惨であった。半地下のような建物の内部は、床面を飾っていたモザイクがすべて剥ぎとられ少し離れた博物館に移動している。展示されたモザイクは壁面に飾られ、過去の栄華の一部を切り取って絵画作品として展示されているのだ。当然、床に配列された状況とは完全に異なる位置関係で展示されている。果して、これで良いのだろうか。まさか、日本の漫画家・赤塚不二夫のように「これでいいのだ!」とは誰も言えまい。
ここでも、「場」という概念が問題となってくる。場とは空間のことであり、関係性のことであるが、同時に場に内在する時間性の概念も排除することはできない。特に、博物館のような空間には、時間と独立した絶対空間は存在し得ない。『建築の世界-意味と場所』を著したクリスチャン・ノルベルグ=シュルツは、ヴィラール・ド・オヌクールを引用し、「建築のいかなる作品もある場所に属し、それゆえになによりも『地方的—場所的』であるという事実」は最も偉大で説得力がある、と述べている。別のことばで言えば、「根づき性」とも彼は表現している。
しはしば博物館は知の宝庫であると言われるが、しかし、この根づき性を自ら壊していては文化的意味の喪失さえ引き起こしかねないのではないだろうか。展示物ないしは資料と資料の位置関係、あるいは関係性を維持しつつ、全体の体系が必要であるように思えてならない。体系をバラバラにしたあとで再構成することは危険でさえある。
世界軸の表現
バーナード·ローゼンタールは、セーラムの試験でどのような証拠を使用しないもちろん、朽ち果てていく運命の文化遺産には手を差し伸べなければならない。文化財の修復と復元という行為は医療行為と同じように、患者の様子を見ながら治療方針を立てるのが原則である。しかし、たとえそれがどのような場合であっても、資料が複数存在する場合、資料と資料の関係性を無視してはならないし、資料の位置関係や遺産の存在場所も重要な要素であることには変わりない。
ふたたびアルベルティの『建築論』を引用すれば、「神殿が位置すべき場所は、訪れる人の多い立派な所であり、世俗のあらゆる汚れと無縁に自ら顕示するかのごとく、そびえる所でなければならない」(相川浩訳)という。
大聖堂からモスクへ変身したイスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂博物館(写真i)は、アルベルティの引用そのものの姿である。数えきれない歴史を背負い、それを浄化しつつも、今日では非宗教施設として観光客を迎い入れている。礼拝の時刻を告げる高い尖塔は、天に近づこうとそびえ立つ。四本のミナレットは威厳を放ち、世界観を自らの威圧的外観によって顕示する。アジアとヨーロッパの架け橋にある博物館は宗教界と俗世界を結ぶ懸け橋でもあるかのようだ。
世界一古いと言われるオックスフォードのアッシュモレアン博物館も、ヘラクレスの柱のように、柱が世界を支えている象徴として表現されている。カミュは「直立するものは美しい」と述べたが、原広司はさらにカミュを引用し、「柱は世界軸(axis mundi)であり、言語とものが和解する装置である」と述べている。(『集落の教え100』)
博物館は知の体系であり、抽象的表現を許してもらえば、博物館はひとつのコスモロジーである。確かに、原の言葉を証明するかのように、言葉とモノの両者が組み合わさり、歴史を語り、最終的には宇宙論まで昇華する。モノとモノの組み合わせ方によって、意味が異なり、多くのストーリーが生じてくることはやむを得ない。必ずしも「展示」という表現形態がふさわしい訳ではないが、物的証拠の配置如何によって物語が生まれ、「主導者」(---「学芸員」をこう呼んでみたい---)によって編纂作業がおこなわれ、表現していくプロセスが世界観の表現につながるのである。このプロセスにとっては、現代建築であろうと歴史的建造物であろうと、やはり建築という器の中で展開されなければならないのである。ウィーンの美術史博物館に展示されている絵画作品の多くは、コレクション構築の歴史そのものであり、物量に相応しい規模と面積が必要なのである。
しかし、繰り返すが、歴史建造物のような不動産は博物館の展示物のように位置関係がそう頻繁に移動できるものではなく、都市の中の位置関係そのものによって文化的・社会的意味が生じているのである。別のことばで置き換えれば、時間的・空間的文脈を無視することはできないのである。
では、野外博物館の場合はどうか。
絵画作品と同じように、不動産を動産のように扱い、移動させ、移築し、元あったところとはかけ離れた場所で公開する…。延命策とは言え、古びの美のもつ建造物をコレクションし、閉鎖空間の中で再配置を試みる野外博物館の場合、保存方法としてはこれが最善の方法なのであろうか。
博物館建築という記念碑
さて最後に、イボ・マロエビッチの『博物館学序論--ヨーロッパのアプローチ』から博物館建築と建築博物館の関連性について紹介しておきたい。氏は、建築的側面から博物館を、
①博物館のために特別に建設した博物館
②歴史的建造物を博物館の用途に転化し適用させた博物館
③歴史的価値のある建造物そのものを博物館化した博物館
④野外博物館
⑤自然界に存在する博物館(類似施設)
と5つに分類している。
マロエビッチによれば、博物館建築も建築博物館も同じ延長線上で語られることになる。以下、具体例で見ると……、2008年12月に開館した中国・寧波の寧波博物館(写真l)は上記分類の①であろう。歴史的建造物の博物館として転化し公開しているのは韓国国立民俗博物館であり、トプカプ宮殿である(分類②)。
韓国国立民俗博物館の移転計画もあるが、権力の象徴はみごと城閣建築に表れている。中国保国寺は「古建築博物館」と称し、歴史的建造物そのものを博物館として公開している(分類③)。さきほど問題視した野外博物館は日本国内にも多数あり、建造物がひとつの収集品である 。建造物の中に人が居住していれば建物は長持ちすると言われる。逆に、無人ならば家は駄目になる。博物館が活き活きするためには、常に来館者や管理者が動態的(ダイナミック)に活動していることが重要である。
今日、もはや厳めしい表情をした神殿は姿を消した。客を迎い入れるためには表情を和らげ、文字通り都市の装飾品として機能しなければならないことに気がついたのである。外観の威厳とは裏腹に、内部空間は来館者サービスというソフト面を前面に打ち出すことによって付加価値を高めようとしている。日本の博物館の立ち位置は決して後方ではなく、さりとて前方でもない。唯一欠けているものがあるとすれば、世界へ発信する主張であり、世界軸の表現である。「舟に刻みて剣を求む」ことはあってはならず、激変する現代社会においては変わらぬものに救いを求めている人々も多い。
博物館は変わらぬ過去と変化する未来を見据えるヤヌスように二つの顔を持つべきである。文化財の概念が拡大する今日、博物館の可働文化財だけを扱っていてはならない時代に突入した。巨額な投資をして新しく博物館を建設するプロジェクトはそう多くない。むしろ歴史的建造物を博物館に転化する傾向が世界各地に見られる。そうならばこそ、私たちは発想を転換し、記念碑としての博物館建築について考察を深めていくことも必要であろう。いずれ50年先、100年先には現在の博物館建築も文化財となり、建築的文化遺産となる日が来るのだから…。
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