重田兄、私はあなたとともにいる旅人です、吉祥寺集会、喜びのメッセージ集
12 | 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。 |
今読んで頂きました12節の後半のほうですが、ここでダビデは「私はあなたと共にいる旅人。」と言っています。「あなた」とは、もちろん主なる神であります。
このことについて私たちも、実はダビデと同じように主とともにいる旅人です。
その問題について、みことばをひきながら、ご一緒に考えてみたいと思います。
旅人という言葉は、なつかしさを覚える言葉ですね。今はあまり使わなくなりましたが、良い言葉だなと思います。旅をする人。
「旅」という言葉も、この頃余り使� �れなくなりました。代わって「旅行」とこの頃は言われます。しかしながら、旅と、旅行とは、こんなことはうるさいなと思いになるかもしれませんが、やはり違うのじゃないかなと思います。
意味がちょっと違うのじゃないかと。ニュアンスと言いますか。
旅行、旅行と言いますと、修学旅行や、観光旅行や、あるいは温泉旅行。海外旅行。なにか楽しい感じを私たちは受けます。
旅だって同じじゃないかとおっしゃるかもしれませんが、ある辞書をひきますとね、旅というのをこういう風に定義しているのです。
旅=旅とは、住んでいる所から離れてよその土地へ行くこと。
そういうふうに書いてありました。ちょっと、私もこれを見まして、随分旅行とは違うな。何か気楽な旅行とは違う少し厳しさを感じるの� ��はないかと思うのです。
昔の人は、今の私たちがしている旅行じゃなくて、旅をしていたのです。
住んでいる所から離れてよその土地へ行くということになると、これは相当の覚悟がいるのじゃないかと思います。
昔はよく旅をする前に、水杯をかわして旅に出た。やくざ者みたいですけど、そういうふうな覚悟をして旅に出たのですね。
結局、もしかしたら帰って来れないかもしれない。その可能性もあったのです。
いろんな危険が旅の間あります。旅にでかける方も、見送る方も、それなりの覚悟があったのではないかと思います。
昔は、本当に歩いて、あるいはかごに乗って、馬に乗って旅をしました。いろいろな道があります。平坦な道ばかりではなくて、高い山もあれば険しい谷もありました。
流� �の急な川を渡ることもあるでしょう。たいへんな苦労があったと思います。
途中で病気をしたりけがをしたり、あるいは強盗に遭うような危険もあったことでありましょう。
そういうふうな苦しい目に遭いながら、時には命の危険に遭いながらも、目的に向かってよその土地に向かって一歩一歩進んでいく。
これが、旅であります。しかしながらそういうふうな旅を、私たちは今でもしているのです。
その旅というのは、人生の旅であります。
人生の旅というのはどこで始まるのか、どこで終わるのか。言うまでもなく、人生の旅の始まりは私たちがこの世に生まれた時であります。そして、人生の旅の終わりは私たちが死ぬときであります。
しかしながら、私たちの人生にはこの旅のほかに、もうひとつの旅が� �ります。
それは、天地万物をお造りになり、それらを支配しておられる生けるまことの神様、そしてイエス様に信じ従う信仰者の旅であります。
今読んで頂いた詩篇39篇は、ダビデの作と言われています。
まことの神を主と仰ぎ、主と共に旅をした信仰者であるダビデの詩であります。
そしてこの詩は、先ほど申し上げましたように、イエス様を主として従う私たち信者の旅である、思いであるということも言えると思います。
そこで、これから私たちイエス様を主と信じる信仰者の旅について、いろいろ考えてみたいと思いますが、まずイエス様を主と仰ぐ信仰者の旅はいったいどこから始まるのか。
イエス様を信じる者も信じる前は、この世のほかの人と同じように生まれた時から始まるこの世の人生の旅をし ていました。
けれどもイエス様を信じてからは、私たちの旅は、キリスト者として生まれ変わった時から、新たに始まるのであります。
羊はどうなのか?
そして、私たち信者の旅はいったいどこで終わるのか。それは、この世の人の人生の旅が死で終わる。
死という真っ暗闇の、恐ろしい何かよくわからない恐怖と不安で終わるのと全く違う。私たちイエス様を信じる者の旅の終わりは、神様のまばゆい光に包まれた天の御国と言う目的に入るところで終わるのであります。
ヘブル人への手紙11章8節から10節をみますと、そこには主なる神に従って信仰の旅に出た多くの人々についての記事が載っております。ここには、アブラハムについて記されいます。
ヘブル人への手紙11:8-10
8 | 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。 |
9 | 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。 |
10 | 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。 |
このように記されております。主なる神様がアブラハムに、「あなたは生まれ故郷を出て、示す地に行きなさい。」とおっしゃった時に、彼はすでに75歳でありました。
しかしながら年老いた彼は、神の仰せに素直に従って、住み慣れた生まれ故郷を出て、主から示された土地、カナンに旅立ったのであります。
そして、彼は約束の地カナンに着いてからもその地で他国人、旅人として、家族達と共に天幕生活を続けました。
なぜでしょう。目的地に着いたのですから、自分でもっとしっかりした家を建てなかったのでしょうか。なぜ、天幕生活を続けたのでしょうか。それは、カ� ��ンの地もアブラハムにとって最終の目的地ではなかったからであります。
アバラハム達は、地上には本当の故郷はない、この世にある間は、どこに居ても旅人であるということを自覚していました。
そして、目に見えない天の都をまことの故郷として、目で見ているように確信して、日々主なる神様に信頼しながらこの世の旅路を歩んでいたのであります。
今、お読みしましたヘブル人の手紙の11章の8−10節の後に、次のように書いてあります。
ヘブル人への手紙11:13-16
13 | これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 |
14 | 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 |
15 | もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 |
16 | しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 |
このようにあります。こうして主なる神様に信頼して主の仰せに従って信仰の旅をした私たちの信仰の先輩者たちは、地上における旅路の終わりに、主が用意されたまことの故郷である天の都に入ることができたのであります。
しかしその道程と申しますが、旅路は決して平坦な楽なものではありません。天の御国への旅を妨げるものは、たくさんあります。中でも、サタンは、いろいろな手段を使って信仰者の旅を妨げてきます。
かつては自分の支配下にあった私たちが、 イエス様を信じてこの世に属する者、サタンの支配下にあった立場から神に属する者に生まれ変わったことをサタンが腹を立てて憎んでいるからであります。
信仰者の旅人がこの世の人から嘲られたり、疎まれたり、あるいは場合によっては迫害されることがあるのも、このサタンの仕業であります。
けれどもどうして、この世の人々はどうして、私たち信仰者の旅人を迫害するのでありましょうか。それは、イエス様を信じている私たち旅人が、この世の人達と違うからであります。
いったいどこが違うのか。まず、私たちが身につけている衣服が違います。ちょっと肉の目で見ても、この世の人々と私たちの違いはわかりませんが、それは目に見える衣服ではなくて、私たちの霊が着ている霊的な衣服であります。この服につ いてゼカリヤ書には次のように記されています。
ゼカリヤ書3:3-4
DFYあなたのためにそれを行う
3 | ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。 |
4 | 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 |
何でヨシュアは汚れた服を着ていたのでしょう。これは罪に汚れた服であります。彼は、罪に汚れた服を着て御使いの前に立っていました。
このヨシュアは、バビロンに捕らわれていたユダヤの民の指導者の大祭司ヨシュアです。
けれども大祭司ヨシュアも、そしてまたイエス様を主と信じた私たち信者も、イエス様によって罪に汚れた不義と言う服を脱がせて頂いて、罪なく、真っ白な礼服を着せて頂いた者であります。
この服は、イエス様を救い主として信じる信仰によって与えら� ��た礼服、神様の義の礼服であります。
そして、イエス様を信じた者はみな、この礼服を着て天の御国向かって出発するのであります。旅立つのであります。
そして、天の御国に着くまではずっとこの礼服を着て、旅を続けているのであります。この世の人達はそれを見て、あなたがたは私たちと違う服だな。なんで、こんな服を着るのか。そう言うのです。
イエス様を信じる旅人がこの世から迫害される2つ目の理由。それは、わたしたちの話す言葉が違うからであります。
私たちはどんな言葉を話しているのでありましょうか。パウロは、コリントの手紙第Iの1章18節で次のように言っています。
コリント人への手紙第I、1:18
18 | 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 |
私たちが話す言葉は、この十字架の言葉であります。十字架の言葉というのは、イエス・キリストの十字架上の贖いによって、人間が神様に犯したそむきの罪の刑罰から救われという、良き知らせ福音の言葉であります。
イエス様を信じた者は、主の一方的な恵みによって御霊を与えられております。
そして私たちは、その主の御霊によって、この十字架の言葉、みことばを味わうたびに、喜びと慰めと希望と元気が与えられます。
先ほどのメッセージにもありました。みことばによって私たちは慰められ、希望を与えられ、喜びを与えられ、そして、元気が与えられます。
けれども� ��の世人は、この世の知恵のことばには耳を傾けますが、この世の賢者と言われる人達のいうことは耳を傾けます。
ところが、彼らは、御霊を持っておりませんから、みことばがわかならいのです。十字架の言葉が愚かに聞こえるのであります。
イエス様を信じて歩む旅人が、この世から迫害される3つ目の理由は、私たちが、違う価値観を持っているからであります。
これについてパウロは、ピリピ人への手紙3章7節から9節で次のように言っています。
ピリピ人への手紙3:7-9
どのようにレナート·ニルソンは、彼の写真を撮りました
7 | しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 |
8 | それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、 |
9 | キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。 |
このように書いております。イエス様を信じる私たちは、とてもまだパウロのように、この世のいっさいのものをちりあくたと思う程に信仰は強くありませんが、そのような私たちでも、イエス様を信じる前と後では、この世についての価値観が知らず知らずに変わっていることに気がつきます。
イエス様を知った素晴らしさの故に、それまで大切に思っていたこの世的には価値があったものをむなしいと思うようになった自分に気がついて、「おやっ、どうしてこんなに変わってしまった のだろうか。」と驚くのではないでしょうか。
それと同時にこの価値観の変化が自分の意志の力によって起ったものではないこと、そうではなくて、私たち信者の中に住んでくださっている主の御霊の働きによるものであることを知って、これまた改めて驚きます。驚くだけではなくて、主の恵みに感謝するのであります。
このようにイエス様を信じる私たち旅人というのは、この世の旅人とは、着ているものも、言葉も価値観も、違うのです。しかしながら、そういうこの世の人達が旅をする道筋と、私たちは同じ道筋を歩いていることも確かなのです。
私たちのたどる道も、この世の人のたどる道も、ある所まではこの世を通っておりますから、いろいろな場合にこの世の旅人と旅の途中で出会うことがあります。
そうし� ��時に、私たちを見てこの世の人達は、「あなたがたは私たちと違うね。着てるものも、言葉も、価値観も違うじゃないか。」と、言って責めたり、疎んじたり、迫害したりするのであります。
そういう時に、サタンが私たちにささやきかけます。
「そんなにあながたたは、無理しなくていいのじゃないの?」
「たまには、世の中の人達と妥協しなさいよ。」
「たまには、イエス・キリストの義と言うその礼服を脱いだらそうですか?」
「この世の人達も着てる同じ着物を着たらいかがですか?」
「あなたが、話してるみことばをたまには捨てて、替りに、この世の人達が使ってる言葉を使ったらどうですか?」
そして、一番サタンが私たちにささやきかけるのは、この世の人達が使う人間愛という言葉です。それは、世の中の人達が喜びうれしがるのです。
主の愛、十字架の愛の言葉は、この世の人達は嫌いますが、人間愛は、この世の人達は好きなのです。
そしてまたサタンは、イエス様を信じる者の価値観を捨てて、この世の人と同じような道徳や倫理に基づく、価値観をあなたがたは持ったらどうですかと。
そうして、世の中の人達と仲良く調子をあわせれば、彼らもあなたがたを受け入れて、一緒に楽しい旅ができますよと、こう言うふうにサタンは、私たちにささやきます。
けれども、これこそがサタンの落とし穴。私たちを、天の御国にへの旅を妨げようとするサタンの落とし穴であります。
イエス様を信じる旅人である私たちは、悲しいことにと言いますか、信仰がまだ弱くて、時には天国への旅に疲れて� �足がふらついてしまうことがあります。
そしてまた、今のようなサタンのささやきに惑わされて、サタンの仕掛けた穴に押し込むことがあります。泥沼にはまり込むことがあります。
けれども、その時どうしたら良いでしょうか。
幸いなことに、私たちはその術を、そこから脱出する方法を知っております。私たちが穴や泥沼に落ちたと気がついたら、すぐにイエス様に、「助けてください。」と、叫べばいいのであります。
ご自分を求める叫び声をお聞きになったイエス様は、すぐに私たちが落ち込んだ穴から泥沼から引き上げて安全な所に置いてくださり、そしてまた、私たちは天の御国への旅を続けることができるのであります。
こういうふうな体験を味わったダビデは、次のように主なる神様に感謝の祈りを捧 げております。
詩篇40:1-2
1 | 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、 |
2 | 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。 |
私たちもダビデのように主に感謝しながら、感謝の祈りを捧げながら旅を続けたいものであります。
天の御国への旅には、もうひとつの大問題があります。それは、死の川を渡らなければならないということであります。死の川は、天の御国への旅路の中で最大の難所であるということができます。
しかしながら、この最大の難所も、イエス様が共にいてくださるという確信を私たちがしっかり持ってさえいれば、私たちはイエス様にすがって死の川も恐れることなく渡ることができるのであります。
主なる神様は次のように私たちを励ましてくださるからであります。
イザヤ書43:1-2
1 | だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。 |
2 | あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 |
死の川の水の中を私たちが過ぎるときも、死の川を渡る時も、あなたは溺れない。
それは、私があなたと共にいるから、あなたを支えているからだ。これが、主の私たちに対するお約束であります。
そのみことばを確信して死の川を渡れば決して恐れることはないのであります。
イエス様を信じる旅人である私たちにとって大切なことは何か。それは、昼も夜もいつも共にいて導いてくださるイエス様を見失わないように祈りながら旅をすることであります。
天の御国に入る日は、もう間近に迫っており� �す。険しい長い旅で、足腰が弱いよろめきながらの歩みの私たちにとって天の御国が近いと言うことは、たいへんな希望であります。
そして、その希望によって私たちはふらついた足も、元気を取り戻して旅を続けることができるのであります。
さて、最後に、天の御国を目指して旅をする私たち、イエス様を信じる者には、主からたいへん重要な任務が与えられていることを忘れてはならないと思います。
それは、主のしもべである私たちに託されたイエス様を証しする任務であります。
天の御国への旅路は先ほども申しましたように、この世を通っています。ですから、旅の途中でたくさんの旅人に会います。
先ほど、これらの人々の中には、私たちを疎んじたり、迫害したりする人がいると申しましたけれど、� ��のような人ばかりいるわけではありません。
人生の旅の中で苦難にあって、悲しみ苦しんでいる旅人もいます。人生に絶望した旅人もいます。自分の無力さ愚かさを痛感している旅人にも出会います。
そして、そのような旅人の中には、彼らから見て私たちが変わった衣服を着て、変わった言葉を使い、変わった価値観を持っている、そういう私たちも苦しみに遭ったり、よろめいたりしても倒れないで、希望を持って旅を続けている、そういう私たちを見て不思議に思いなぜですかと心を開いて聞いてくる人もいます。
それは神様がその旅人の心を砕いて導いておられるからであります。その時こそ、イエス様を証しするチャンスであります。
もしかしたら、その旅人にとってイエス様を知る機会は、この時しかないか� ��しれない。ですから、その機会を逃さないように、イエス様を信じる私たちは、いつも目を覚ましていることが大切であります。
ペテロは、天の御国を目指して旅を続ける私たちに次のようにすすめております。
ペテロの手紙第I、2:11-12
11 | 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。 |
12 | 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。 |
私たちイエス様を信じる旅人は、ここに書かれているように「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざける」と言うことも、この世の人々の中にあって「りっぱな」行いをすることも、決して自分の意志や力でできないことを痛いほど知っています。
ただひたすら、共にいてくださるイエス様に信頼して、祈りながら毎日毎日の旅を歩み続ける時に、私たちの中で御霊が働いてくださって、自ずとこの世の旅人への証しとなるような歩みができるのではないでしょうか。
こ うして、天の御国への旅の間に、つぎつぎと新しいキリスト者が誕生して共に手を携えて御国を目指して旅をすることができるのは、なんと幸せなことではないかと思います。
イエス様が、私たち信じる者を空中で迎えに来て下さる日も、間近であることを覚えます。それを示すあらゆる出来事が世界中で、加速度的に増し加わっていることを切実に覚えます。
そういう時に、ひとりでも多くの方が天の御国で、天の旅人の群れに増し加えられるように、私たちひとりひとりの祈りが、御霊により強められるように、心から祈る次第であります。
ありがとうございました。
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