2012年4月26日木曜日

「原爆ホロコースト」の実態


●広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。

まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。

 


被爆者である橋爪文さんが書いた
『少女・14歳の原爆体験記』(高文研)

詩人の感性を持つ少女の目を通して、被爆の実相と、
廃墟に生きた人々の姿が克明に描かれている。
「ABCC」の実態についても触れられている。



「原爆傷害調査委員会」と訳されたアメリカ軍施設「ABCC」

 

「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。

このように原爆は人体実験であり、戦後のアメリカの利を確立するための暴挙だったにもかかわらず、原爆投下によって大戦が終結し、米日の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。このことによって核兵器の判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。」

 

 
原爆は通常の爆弾と違って、深刻な
「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である。

放射線の影響は、その後長期にわたってさまざまな障害を引き起こした。
体内に取り込まれた放射線が年月を経て何を引き起こすのか、
50年以上経過した現在でもまだ十分に解明されておらず、
被爆者はこれらの後障害で今なお苦しみ続けている。

現在もアメリカは被爆者たちを追跡調査している。


 
放射線の影響によって、髪の毛がごっそり抜け落ちてしまった姉弟


 
被爆して顔面に大ヤケドを負った6歳の少女。包帯姿が痛々しい。
後ろにいる母親は左腕と両足をヤケドし歩くことができなかった。
この親子は広島地方専売局の臨時救護所に通い続けた。
当時、彼女たちは一生消えない傷を背負って、
戦後を生きていかねばならなかった。



1993年2月5日 『朝日新聞』

【上の記事の内容】=ネバダ核実験場を管轄している
米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、
広島・長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが、
4日、明らかになった。同事務所は「分類方法に不適切があった」とし、
「次版から書き方を変更することを検討する」としている。 〈後略〉

 

 

トルーマン大統領の原爆に関する「罪」は、これだけでは終わらない。まだ大きな責任がある。

大戦の終結とともに、アメリカは「世界最初の原爆保有国・使用国」として、原子力を厳重に管理して、世界に原爆を拡散させないようにする重大な責任があった。「原子力の国際管理」は地球の未来を占う非常に重要なテーマであった。

第2章でも触れたように、1946年、トルーマン大統領の国連特使を務めたバーナード・バルークは、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案した。しかし、それが人道主義的な立場からではなく「アメリカの核優位・核独占」という「ソ連への牽制」であることが明らかにされ始めると、この「国際原子力管理協定」の実現は破綻してしまったのである。

また、大戦の終結とともに、「マンハッタン計画」に参加していた科学者たちは、原子力研究を平和時の状態に戻し、「軍管理体制」を解除するよう求めていたが、トルーマン大統領はこうした動きを完全に無視して、原爆の開発を軍の指揮下で積極的に推し進めた。そして、1948年には「サンドストーン計画」という「原爆大量生産計画」をスタートさせたのである。


●そして、1949年にソ連が「原子爆弾」の開発に成功すると、トルーマン大統領は、翌年1950年に「水素爆弾」の開発にすんなりとゴーサインを出してしまった。

1952年に最初の「水素爆弾」の実験が行なわれたが、この時、太平洋の小島「エルゲラブ島」が消滅してしまうほどの威力を見せつけた。

この水爆実験成功によって、ユダヤ人科学者エドワード・テラーの唱え続けていた「超強力爆弾」の理論が妄想でないことが実証されたのである。

 


「水素爆弾」は広島に投下された「原子爆弾」の
1000倍以上の破壊力を持つ悪魔の兵器である

 

1954年3月1日に行なわれた「水爆」実験によって、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまうという事件が発生したが、この時の「水爆」の名前は『ブラボー(万歳)』で、テラー博士の作品であった。

恐ろしいことに、日本人は広島・長崎に続いて核の被害にあったのである。

この世界中を震撼させた「ビキニ事件」は、映画「ゴジラ」の製作のきっかけにもなった事件である。(※ アメリカが行なったビキニ環礁の水爆実験でジュラ紀の恐竜が目覚め、身体にたまってしまった放射能を吐くという設定)。

 

 
1954年3月1日に行なわれた「水爆」実験によって、
日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆してしまった。
日本人は広島・長崎に続いて核の被害にあったのである。

 

「水素爆弾」の完成は、アメリカ科学者たちの間に大変な反響を呼び、テラー派反テラー派とに大分裂させた。

更にこの頃、「マッカーシー旋風(赤狩り)」が荒れ狂っており、原爆開発のリーダー的存在であったオッペンハイマーは「ソ連のスパイ」ではないかと告発され、「政治的理由から水爆の緊急開発計画に反対を唱えた」というテラー博士らの追い打ち証言もあって、かつての英雄オッペンハイマーは「国家反逆」のレッテルを貼られて第一線から追放されてしまったのである。

 


ジョセフ・マッカーシー上院議員

マッカーシズムといわれる嵐を巻き起こした。
マッカーシズムとは、1948年頃から1950年代半ばの
アメリカで起きた激しい反共産主義運動のことである。


 
米誌『タイム』の表紙を飾った
オッペンハイマーとテラー博士

 

●しかしこの事件は多くの人々に"不正"なものと映ったため、この「オッペンハイマー事件」以後、一般にオッペンハイマーは「科学への殉教者」、テラー博士は彼を落としめた「迫害者」と見なされ、かつての親友たちもテラー博士を敬遠するようになったという。

結局、テラー博士もまたアメリカ科学アカデミーの主流から隔絶されてしまったのである。

 


原爆・水爆・SDIの父である
ユダヤ人科学者エドワード・テラー

水爆の開発をめぐって、水爆反対派の
オッペンハイマーと激しく対立した

 

●しかし、科学者の仲間から拒絶されたテラー博士は積極的に資本家や産業界の重鎮、大物政治家との親交を深め、軍部にも急接近していった。ネルソン・ロックフェラーとはすぐに親友になった。時の副大統領のリチャード・ニクソンは、テラー博士に助言を求めた。後にニクソンは大統領になったとき、テラー博士の研究を推した。

1960年代、テラー博士の招待に応えたロナルド・レーガンは、テラー博士の研究所を訪れた最初のカリフォルニア州知事となった。後に大統領となったレーガンは、強力な軍拡路線を敷く中で、テラー博士を最大限に擁護した。レーガンは、テラー博士のアイデアである「SDI計画」をブチ上げたことで知られる(1983年3月23日)。

※ レーガン大統領はアメリカ科学界最高峰の栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」をテラー博士に贈った(前述)。

 

 
(左)レーガン大統領と握手するテラー博士 (1983年)
(右)テラー博士の考案したSDI兵器の1つ「核X線レーザー衛星」。
小型水爆の周囲に数十本のロッドを配して、自らの核爆発によって
各ロッドから「核X線レーザー」の一撃を放出させる兵器である。

 

●さて、話をトルーマン大統領に戻そう。

冷戦時代の外交官で第一外務次官を務めたコルニエンコは、1995年に『冷戦──冷戦参加者の証言』を出版し、冷戦発生の責任はその全てとはいわないが、そのほとんどの部分は西側列強にあり、冷戦を開始したのはアメリカ、トルーマン大統領であったと主張している。彼は次のように語っている。

「フランクリン・ルーズベルト大統領は1945年4月12日に亡くなるまでソ連との協力を望んでいたが、同大統領の亡きあと大統領となったトルーマンはただちにポーランド問題で冷戦の『第一発』を放った。また、トルーマンが冷戦の道を歩むことを最終的に決めたのは同年9月21日、彼がスチムソン陸軍長官の原子爆弾の管理と使用制限についてソ連と協定を結ぶように主張した提案を拒否した日であり、冷戦を公式に宣言したのは1946年3月5日、チャーチルがアメリカ・ミズーリ州フルトンで有名な『鉄のカーテン』演説をしたときに同席した日である。」



●このように、トルーマン大統領は、原爆の管理と使用制限についてソ連と協定を結ぶのを拒否し、無秩序な核開発計画を進めたのである。

結局、アメリカとソ連は、トルーマン政権以降、熾烈な核軍拡競争に明け暮れ、20世紀の末までに米ソ両国は合わせて4万発以上の原爆・水爆を製造し、1700回以上の原爆・水爆実験を実施し、各地に死の灰を降らせた。

また両国各地に点在する巨大な核施設の爆発事故・放射能漏れ、原発事故、さらには老朽化した原潜・ウラン鉱山なども住民に深刻な放射線被害を引き起こし、環境に多大な汚染をもたらしてきた。

全く狂気の沙汰としかいいようがない。

 

核実験の回数 (核爆発をともなう実験)

 

●トルーマン大統領の「罪」は、原爆の対日投下と、戦後の無秩序な核開発だけにとどまらない。

彼は、1947年の国連による「パレスチナ分割案」を強力に後押しし、国連加盟諸国へ脅しの根回しをして、イスラエル建国を実現させた元凶でもあるのだ。

 


イスラエルの国旗

 

●中東を専門分野とするイギリス人の国際評論家、デイヴィッド・ギルモアは、豊富な当局側資料を駆使した著書『パレスチナ人の歴史──奪われし民の告発』の中で、この経過を次のように描きだしている。

「パレスチナの運命を決定したのは、国連全体ではなく、国連の一メンバーにすぎないアメリカだった。パレスチナ分割とユダヤ人国家創設に賛成するアメリカは、国連総会に分割案を採択させようと躍起になった。分割案が採択に必要な3分の1の多数票を獲得できるかどうかあやしくなると、アメリカは奥の手を発揮し、分割反対にまわっていたハイティ、リベリア、フィリピン、中国(国府)、エチオピア、ギリシアに猛烈な政治的、経済的な圧力をかけた。ギリシアを除いたこれらの国は、方針変更を"説得"された。フィリピン代表にいたっては、熱烈な分割反対の演説をした直後に、本国政府から分割の賛成投票の訓令を受けるという、茶番劇を演じさせられてしまった。」



●なお、ここで注意してほしいのは、トルーマン大統領は最初からシオニズムの支持者ではなかったという点だ。彼は最初は、アラブ諸国、とりわけアメリカが石油利権を持つサウジアラビアとの関係を重視し、パレスチナでのユダヤ国家建設に反対する意向を表明していたのである。これに対し、当時の在米ユダヤ人社会は強く反発し、「1948年の大統領選挙では、トルーマンはユダヤ人票を失うだろう」と警告したのである。

大きな票田を持つ都市に集中するユダヤ人の票は、当時、戦局不利が伝えられていたトルーマンにとって勝敗を左右する重要な要素だった。このままでは共和党候補に敗北する、という危機感を抱いたトルーマンは、前言を翻し、国連決議案の支持に回った。これによって、翌年の大統領選挙では75%のユダヤ票を獲得し、きわどい差で勝利したのである。

 


トルーマン大統領は、ユダヤ票欲しさに
熱烈なシオニズム支持者になり、
イスラエル建国を実現させた

 

●マスコミの連中がトルーマン大統領に聞いた。
「なんであなたはそんなにユダヤの肩ばかり持つんですか?」

トルーマン大統領はこともなげにこう言った。
「だって君、アラブの肩を持ったって、票にはならんだろうが」

このように、トルーマン大統領はユダヤ票欲しさに、イスラエル建国を支持するパレスチナ分割決議を推進したのである。

原爆投下といい、戦後の無秩序な核開発といい、イスラエル建国といい、彼は、自分の下した決定が、どんな深刻な悲劇を生み出すのか、あまり深く考える男ではなかったようだ。(ちなみに、トルーマンは父方がユダヤ系である)。

 


シオニズムが抱える深刻な問題については、当館6Fの
シオニズムのページで具体的に考察しているので、
そちらをご覧下さい。本当に深刻な問題です。

 

●参考までに、『新・文化産業論』や『失敗の教訓』など数多くのベストセラーを世に出している日下公人氏(東京財団会長)は、

「トルーマンのコンプレックス」について次のように述べている。

「1995年に刊行された『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』(ロナルド・タカキ著/草思社)という本の中に、驚くべきことが書いてある。

トルーマンは、子供の頃からひ弱い坊やと言われ、ルーズベルトが急死した後を継いで大統領になった時は頼りないと言われた。本人も当初は自信が持てないと日記に書いている。だから、男らしいところを見せようと思って努力しているところへ原爆完成の報告がきたので、早速、原爆投下を決定したのだと書いてある。

それ以前にも、この話は聞いたことがあった。その時は『ウソだろう』と思ったが、還暦を越した今では、その気持ちが分かる。そういうことはあるだろうと思う。歴史は、こうした個人の性格によっても左右されるものらしい。」

 


『アメリカはなぜ日本に
原爆を投下したのか』
ロナルド・タカキ著(草思社)

この本は、トルーマン大統領の性格と
彼の置かれた立場を分析することによって、
彼が原爆投下の決定を下すに至る経緯を
初めて明らかにした衝撃の書である。
興味のある方は一読して下さい。

 

 


 

■■■第5章:演出された東西の「冷戦」──原子力利権の実態


●1992年3月10日に朝日新聞は、「ソ連原爆1号はアメリカのコピーだった」として、次のような記事を載せた。

「1949年8月に初めて実験に成功したソ連の原爆は、アメリカの原爆製造に参加したドイツの亡命物理学者クラウス・フックスからのスパイ情報をもとに、アメリカ製原爆の構造をほぼ真似たものだったことを、ソ連の原水爆の設計責任者を長年務め『ソ連の原爆の父』とも呼ばれるユーリー・ハリトン博士(88)が、朝日新聞とのインタビューで明らかにした。

西側でも、フックス情報がソ連原爆開発の力になったと推定されてはいたが、当事者がこれを認めたのは初めて。また、ソ連初の原子炉は、占領したドイツから押収したウランを燃料としたなど、これまで秘密にされてきたソ連の核兵器開発の様子を詳しく語った。

 


クラウス・フックス(ユダヤ人)

ドイツ共産党に入党していたが、ナチスの
弾圧を逃れてイギリスに亡命。物理学で頭角を現し、
1943年にアメリカに渡り、「マンハッタン計画」に参加。
その間、原爆情報を旧ソ連政府に流していた。スパイ容疑で
尋問され、1950年に自白。懲役14年の判決を受けたが、
1959年に釈放される。その後、旧東ドイツの原子力
研究所副所長を務め、1988年1月に死亡した。


 
(左)1992年3月10日 『朝日新聞』
(右)ソ連初の原爆 「Joe-1」。だが、その実態はアメリカの
原爆情報を入手して作られた「長崎型原爆」のコピーだった。

 

●驚くべきことに、ソ連の原爆開発には、「マンハッタン計画」を主導したオッペンハイマー博士も関与していたという。

1994年4月18日に、中日新聞は次のような記事を載せた。

第二次世界大戦中にアメリカが原爆を開発した『マンハッタン計画』の責任者で『原爆の父』といわれるロバート・オッペンハイマー博士らが、核戦争回避のため力のバランスをつくり上げようと自らの原爆製造情報を当時のソ連スパイに秘密裏に提供していた事実が明らかになった。

18日発売の米誌『タイム』(4月25日号)が元ソ連の大物スパイ、パベル・スドプラトフ氏(87)の回顧録の抜粋で紹介したもので、戦後の『冷たい戦争』も『核抑止力による平和』も、実はこれら科学者たちが"演出"したものだったことになる。


アーサー王の島は何ですか

スドプラトフ氏は現在は引退してモスクワに住むが、大戦当時はソ連の欧州・北米担当情報網の責任者。スターリンによるトロツキーの暗殺計画も担当した大物スパイ。

『タイム』誌が抄録した同氏の英語版新著『特殊任務──望まれない証人の回顧録』によると、原爆製造情報の秘密提供に参加したのは『マンハッタン計画』の責任者でロスアラモス研究所所長のオッペンハイマー博士のほか、1938年のノーベル物理学賞受賞者で1939年にイタリアからアメリカに亡命したエンリコ・フェルミ博士、さらにニールス・ボーア博士ら。3博士らとも熱心な戦争反対論者として知られるが、スドプラトフ氏によれば、『原子力の秘密情報を米ソが共有することで力のバランスをつくり上げ、核戦争を回避しようとした』のが動機という。

ソ連は広島、長崎に原爆が投下される以前の1945年初めに、アメリカの原爆設計図を入手。33ページにわたるこの設計図がその後のソ連製原爆の基礎となった。ソ連は1949年に最初の原爆爆発テストに成功している。」

 


米誌『タイム』
(1994年4月25日号)

 

●この記事で紹介されているパベル・スドプラトフの回顧録は、現在、日本でも翻訳出版されている (邦題『KGB衝撃の秘密工作』/ほるぷ出版)。かなり衝撃的な内容である。興味のある方は、ぜひ読んで欲しい。

 

 
(左)元ソ連の大物スパイ、パベル・スドプラトフ
(右)彼の回顧録『特殊任務』(英語版・1994年)


  
左から、ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、ニールス・ボーア

パベル・スドプラトフによれば、この3人は、原爆製造情報の秘密を
当時のソ連スパイに秘密裏に提供し、冷戦を演出したという。

※ 3人とも熱心な戦争反対論者として知られるが、
「原子力の秘密情報を米ソが共有することで力の
バランスをつくり上げ、核戦争を回避
しようとした」のが動機という。

 

●「マンハッタン計画」と「冷戦」の舞台裏については、まだまだいろいろな情報がある。

例えば、ユダヤ人大富豪ロスチャイルドの研究で有名な広瀬隆氏は、次のような事実を明らかにしている。

「原爆の製造には、原料のウランが必要だった。ロスアラモス研究所では原爆製造のために、アフリカのコンゴ(現ザイール)からウランを調達していた。コンゴは当時最大のウランの産地であり、この鉱山利権を握っていたのがロスチャイルド財閥であった。そのためウラン原料を調達する監督官として国際的な役割を果たしたのがチャールズ・ハンブローであり、彼は戦時中にスパイ組織OSS(CIAの前身組織)を設立した大物でもあった。のちに『ハンブローズ銀行』の会長となり、イングランド銀行と南アフリカの大鉱山利権を支配した男である。」

「第二次世界大戦はユダヤ人にとってホロコーストの悪夢の時代であった。そのユダヤ人であるヴィクター・ロスチャイルド男爵チャールズ・ハンブローロバート・オッペンハイマーは、〈系図〉をみてお分かりのように、血のつながりを持つ一族だったのである。イギリスのロスチャイルド・ファミリーは金融王ネイサン・ロスチャイルドに源を発する一族だが、ちょうどその5世代ファミリーに、彼らが同じ血族として記録されているのである。オッペンハイマーは突然にニューメキシコ州の砂漠に現れた科学者ではなかった。

そしてここに、世界史の大きな謎がある。1989年にベルリンの壁が崩壊するまで続いた米ソの東西対立が、事実危険な対立であったか、それとも半ば両者が示し合わせた人為的な対立だったかという謎である。」

 


上は広瀬隆氏が作成した「系図」。ユダヤ人であるヴィクター・ロスチャイルド男爵、
チャールズ・ハンブロー、ロバート・オッペンハイマーは、血のつながりを持つ一族だった。
オッペンハイマーは突然にニューメキシコ州の砂漠に現れた科学者ではなかったのだ。

 

●さらに広瀬隆氏は、次のように語る。

「ヴィクター・ロスチャイルド男爵の再従妹にナオミ・ロスチャイルドがいるが、その夫はベルトラン・ゴールドシュミットというフランス人だった。後に国際原子力機関IAEAの議長となるのだが、この男は『マンハッタン計画』の指導的立場にいた。その『マンハッタン計画』に物理学者として参加していたユダヤ人、クラウス・フックスは、原爆に関する極秘資料をせっせと旧ソ連政府に流し、旧ソ連の原爆第1号が製造される。(フックスはスパイ容疑で逮捕され、1950年に懲役14年の判決を受けたが、1959年に釈放された)。

このクラウス・フックスを操っていたのがイギリス内部に深く根差した『ケンブリッジ・サークル』という組織だった。共にケンブリッジ大学出身のイギリス諜報機関MI5、MI6の最高幹部4人が、この組織を通じてソ連に核ミサイルに関する極秘情報を流していたのだった。そしてその中にMI5のソ連担当官アンソニー・ブラントという人物がいた。ブラントは女王陛下の美術鑑定家としても名高くナイトの称号を与えられていたが、実はソ連の二重スパイとして女王陛下を裏切っていたのだった。そしてこのブラントはアーサー・ブラントという父を持ち、その血縁者エディス・ボンソワを通じてハンブロー・ファミリーと結ばれている。」

「先にオッペンハイマーの一族として示した〈系図〉のヴィクター・ロスチャイルド男爵は、1990年にこの世を去るまで、このソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの『ケンブリッジ・サークル』の最大の黒幕とみなされてきたのである。」

「このように東西を密かに流通する大きなパイプが走っていたのだ。しかも、パイプの東側ではシベリアの原爆開発が進められ、西側では彼らが全世界のウラン鉱山を支配して、今日まで人類史上最大のカルテルを形成してきた。南アフリカから生まれた利権は、想像できないほど天文学的なものだったのだ。」

 


第二次世界大戦中の
ロスチャイルド直系当主
ヴィクター・ロスチャイルド男爵

彼はソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの
「ケンブリッジ・サークル」の最大の黒幕だった

 

●さらに広瀬隆氏はこう語る。

「核実験は、2つの目的を持っていた。1つは、高度で破壊力のある兵器を作るための軍事的開発である。しかしもう1つは、核爆弾を1発爆発させるごとに大量の札束を吹き飛ばす利権であった。東西の緊張が高まれば高まるほど、核兵器の開発は容易になったのである。」

「そして次に彼らに必要となったのは、原子力の平和利用へ移っていくなかでの"放射能の安全論"であった。ここで数々の生体実験を行なってきた科学者たちが所有しているデータに目がつけられたのだ。『マンハッタン計画』の命令系統には、大きく分けて2つの部門があった。第1が広島・長崎への原爆投下を実行した『原爆開発班』である。世界有数の科学者が集められ、核分裂を実用化した著名なグループだ。しかしそこに第2の部門として『医学班』が存在していたのである。放射能の危険性を研究した最高責任者がスタッフォード・ウォーレンであり、彼自身が生体実験を認可した当人であった。 〈後略〉」



●上の広瀬隆氏の話の中に出てくる「ケンブリッジ・サークル」とは、イギリスを震撼させた「ソ連の二重スパイ組織」のことで、ケンブリッジ出身の4人のダブル・スパイ、キム・フィルビー、アンソニー・ブラント、ガイ・バージェス、ドナルド・マクレーンがメンバーだったことで知られている。名門パブリックスクールからケンブリッジに進学したエリート中のエリートで、彼らはその才能とバックグラウンドを生かしてイギリス情報部、外務省、BBC、王室とイギリスの支配階級の中枢に深く潜入し、KGBに情報を送り続けていたのである。

なぜ将来を約束されたエリートたちが共産主義に傾倒し国を裏切るようになったのか、今でも大きな関心を集めている。

 

   
ソ連の二重スパイだった「ケンブリッジ・サークル」のメンバーたち。左から、
キム・フィルビー、アンソニー・ブラント、ガイ・バージェス、ドナルド・マクレーン。
特にキム・フィルビーは、冷戦時代にスパイ界の「キング」と呼ばれていた。

1979年11月、サッチャー首相は、公的にアンソニー・ブラントを
「反逆者」と発言し、ナイトの称号を剥奪した。

 

●スパイの世界に詳しい高橋五郎氏は、「ケンブリッジ・サークル」のメンバーだったキム・フィルビーについて次のように述べている。

「冷戦時代にスパイ界の『キング』と呼ばれたキム・フィルビーは、学生時代の1933年から熱烈なレーニン主義信奉者で筋金入りのソビエト・ロシアのスパイ。CIAは、フィルビーの正体を1960年代初頭には薄々感づいていたといわれるが、フィルビーは1963年頃にモスクワに逃げてしまった。逃げたというよりも、CIAが逃がしたというほうが、ベラスコのいう『良心的な歴史観』に沿っているかもしれない。

フィルビーがモスクワに逃げて、西側は大打撃を受けた。フィルビーは戦前・戦後を通してイギリス情報網の組織強化に情熱を燃やし、アメリカ戦略情報局(OSS)をCIAに改組強化するうえで力を貸し、両機関のソ連対策にまで知恵を授けてきたとんでもない人物だったからだ。」

「ところで、フィルビーの正体をCIAが見破ったことで、皮肉にも西側戦勝国の戦史や政治史の信憑性が疑われることになる。歴史学者はパニックに陥った。それまで戦勝国が公表してきた第二次世界大戦史と、それに沿って再生産された秘密諜報活動史、軍事作戦史をはじめとして、それらに準拠したスパイ小説、戦争指導者たちの得意げな、あるいは控え目な回顧録、映画、新聞、雑誌記事、テレビ番組など、とくに1960年代前半までに公開された『史実』は書き換えを余儀なくされた。しかし一度知った『歴史』を世間の人びとは面倒がって書き直さない。それをよいことに戦勝国は、スクープされない限りは、いまだに歴史の修正に無関心を装っている。」



●東京大学出身で、「アジア・アフリカ研究所」の名誉所長である岡倉古志郎氏は、「原子力利権」の実態について、著書『死の商人』(岩波書店)の中で、次のように述べている。

「1947年にアメリカで『原子力委員会(AEC)』という国家機関が創設され、『マンハッタン計画』が受け継がれた。引き継ぎの際、明らかになったことは、過去7年間に原爆生産に投下された経費が22億ドルの巨額に達していたということである。その後、冷戦が展開されるに及んで、原子力予算は、まず年額10億ドル台になり、ついで20億ドルを超えた。

1つの新しい産業が突如出現した。それは、初めてベールを脱いだその時からすでに巨体であったが、やがて体全体が成長し、単一の産業としては現代最大の産業になっている』と、1948年末、当時のAECの委員W・W・ウェイマックは原子力産業の巨大なスケールについて述べている。

原子力産業は、『死の商人』にとっては、もっともすばらしい活動分野であった。何しろ、その規模がどえらく大きい。年額20億ドルもの巨費が建設や運営のためにばらまかれる。その設備はといえば、『USスティール』 『GM』 『フォード社』 『クライスラー社』の4つの巨大会社を合わせたよりも大きく、数十万の技術者、労働者を擁している。

この土地、建物、機械などの固定設備はむろん、AEC、つまり国家がまかなうが、その建設、運営は『デュポン社』だとか、『ユニオン・カーバイド社』(ロックフェラー財閥系)や、『GE』(モルガン財閥系)のような巨大企業にまかせられる。建設、運営をひきうける会社は自社製品を優先的に売りこみ、すえつける特権があり、また、運営の代償として『生産費プラス手数料』の原則でAECに請求して支払いをうけるが、この『手数料』は純然たる利潤だとAEC担当官さえ認めている。このほか、運営に当たっていれば、科学技術上の機密が自然入手できるが、これらの機密は、将来原子力産業が民間に解放される場合には、ごっそりいただくことができる。

『死の商人』にとって、こんなボロもうけの分野がかつてあったであろうか。

ジェイムズ・アレンが『原爆崇拝のかげで景気のいい一つの商売がおこなわれている。それは、国家の権威をまとい、えせ愛国主義の霊気に包まれているが、いうなれば"ボロもうけの商売"である。しかも、この事業の目的たるや、大量殺人でしかない』と慨歎しているのも当然である。

 

<原爆開発と原子力開発の組織の変遷>



1947年1月1日に「原子力委員会(AEC)」が発足し、「マンハッタン計画」を継承。
1977年10月1日に「エネルギー省(DOE)」が発足し、「AEC」など諸機関を継承。

 

 


 

■■第6章:冷戦で肥大化していった「軍産複合体(MIC)」


●陸・海・空・海兵隊・予備を含めて350万人以上の人間を擁し、あらゆる近代兵器を持ったアメリカ軍部は、そのメカニズムと力において他に類を見ない組織である。しかもその軍は、2万以上の企業と組んで、巨大な「軍産複合体(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)」を形成している。


●軍産複合体の根幹を成しているのが「ウォー・エコノミー(戦争経済)」である。そもそも軍産複合体は第二次世界大戦と、それに勝つために必要であった複雑な兵器とともに起こったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機・大砲・戦車などを作り出すためには産業に頼らざるをえなかった。電子工学や原子力が兵器となるとともに、頭脳力を供給するために大学が選ばれた。大学は、戦争に勝ち、民主主義を救うための必要な協力者であった。


●そしてこの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産複合体制)を生み出す大きなきっかけとなったのは、軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」である。冒頭でも触れたように、「マンハッタン計画」では、5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。

ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。

 


「ロスアラモス研究所」

この研究所は、1943年、原爆の開発を目的として
ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密の国立研究所で、
初代所長はユダヤ人ロバート・オッペンハイマーが務めた。
1945年春には、理論物理部、実験原子核物理部、
化学及び冶金部、兵器部、爆薬部、爆弾物理部、
それに高級研究部があった。

 

●そして第二次世界大戦が終結すると、今度はソ連を相手にした兵器近代化競争に打ち勝つため、アメリカ政府は膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を結集して新しい武器の開発を求めてきた。

そこで得た研究成果は、「ダウケミカル社」「デュポン社」「ロッキード社」「ダグラス社」などに下ろされ、これら軍需産業が大量に生産。大学の研究室と産業と政府ががっちり手を結び、冷戦という獲物を手にして巨大な怪物へと成長した。


この「軍産複合体」の中核に位置するのが、ペンタゴンとCIAである。1947年に「国家安全法」に基づいて、それまで独立機関であったアメリカ4軍を一元的にコントロールするために設けられたのが「国防総省(ペンタゴン)」で、更に同じ「国家安全法」に基づいて作られたのが「中央情報局(CIA)」であった。

このペンタゴンとCIAの誕生により、軍産複合体は一つのガッチリした"中央集権的組織"となって、アメリカに根を下ろしたと言えよう。

 

 
1947年に、「国家安全法」に基づいて誕生した
「国防総省(ペンタゴン)」と「CIA(中央情報局)」

 

●軍産複合体は年々肥大化し、ペンタゴンから発せられる莫大な「軍需注文」は、2万2000社もある「プライム・コントラクター(ペンタゴンと直接契約する会社)」と呼ばれる巨大な航空機メーカーやエレクトロニクス企業に一括して流されている。

更に、その周辺に彼らの下請け・孫請け会社1万2000社、彼らの金融面を司る多国籍銀行団、スタンフォードやハーバードなどの大学研究室が70以上、ランド研究所、フーバー研究所などペンタゴンと契約している「シンク・タンク」が16……などといったように、何百何千万人もの労働者や科学者、研究家、政治家、退役軍人、ロビイストたちが張り付いているのである。


●ちなみに、ペンタゴンと直接契約している企業は、まだ兵器を製造している段階で、多額の「推奨金(無利子の貸金)」を受け取ることができる。

例えば「ロッキード社」は、1968年12月の12億7800万ドルという支払い済み経費に対して、12億700万ドルの「推奨金」を与えられた。15億ドル近くの経費や設備を含む取引に対して、同社が調達しなければならなかったのは、7100万ドルの自己資金だけであった。


●ペンタゴンからの退役軍人の天下りの多さも無視できないものがある。

プロクスマイア上院議員のいうところによると、1968年財政年度には、主要軍需業の3分の2以上をやっていた100社は、その給与名簿に「2072人の大佐もしくは艦長以上の階級の退役軍人」を抱えていたという。トップは「ロッキード社」の210人で、その次に「ボーイング社」の169人、「マクダネル・ダグラス社」の141人、「ジェネラル・エレクトリック社」の89人と続くという。ペンタゴンの制服を着ていた時に、民間企業との多額の取引の交渉をやっていたその同じ人間の多くの者が、退役後は、その影響力や内部の知識を国防会社の利益のために行使していたわけだ。



●「軍産複合体」がアメリカ経済に対し、依然として強い影響力を持っていることに関し、国防産業協会の会長J・M・ライル元提督は以下のように言っている。

「もしも我々が軍産複合体を持っていなかったとするならば、我々はそれを考え出さねばならなかったであろう。というのは、今日の複雑な兵器を考案し、生産し、そして維持することは、必然的に、それを要求する軍部とそれを供給する産業との間の、最も緊密な協力と連携を伴うからである。」


●「ディロン・リード社」のジェイムス・フォレスタルや「ジェネラル・エレクトリック社」のチャールス・ウィルソンなどは、以下のような率直な見解を示している。

「アメリカが必要としているのは、永久的な"戦争経済"である。」


●ベトナムのある高官は以下のような告発をしている。

「……結局、一番もうかるのは、より性能のいい兵器により高い値札をつけてどんどん売りさばくことのできる"ビッグ5(国連常任理事国)"の兵器産業である。」


pheidippidesは何を手に入れた

「ベトナム戦争ひとつを振り返ってみても、本当の"死の商人"が誰であったか一目瞭然だろう。まず、フランスが膨大な兵器を流し込み、その後をアメリカが引き継いだ。もちろん、そうなるとソ連も放っておけないから、北ベトナムやベトコンにどんどん新兵器を与え、やがては中国も介入していった。そうやって戦争がエスカレートして行きさえすれば、それぞれの国の兵器産業を中心とした軍産複合体もまたどんどん肥え太っていくわけだ。」



●ところで、「軍産複合体」という言葉を最初に使ったのは、トルーマン大統領の次に就任したアイゼンハワー大統領である。

彼は第二次世界大戦の欧州戦域で「連合軍」を指揮し、近代戦の凄まじい消費と後方の生産力のシステム化に成功した「戦争管理型軍人」として知られている。その意味で、「軍産複合体」の生みの親ともいえる人物であるが、それだけに内在する危険性についても考えていたようだ。

 


トルーマン大統領の次に就任した
第34代大統領ドワイト・アイゼンハワー

退任する時に、「軍産複合体(MIC)」の
危険性について警告を発していた

 

●アイゼンハワー大統領は1961年1月17日の大統領"退任"演説で、「軍産複合体」の危険性に関して、次のような警告を発していた。

「第二次世界大戦まで、合衆国は兵器産業を持っていなかった。アメリカの鋤(すき)製造業者は、時間があれば、必要に応じて剣も作ることができた。しかし今や我々は、緊急事態になるたびに即席の国防体制を作り上げるような危険をこれ以上冒すことはできない。我々は巨大な恒常的兵器産業を作り出さざるをえなくなってきている。これに加え、350万人の男女が直接国防機構に携わっている。我々は、毎年すべての合衆国の企業の純利益より多額の資金を安全保障に支出している。」

軍産複合体の経済的、政治的、そして精神的とまでいえる影響力は、全ての市、全ての州政府、全ての連邦政府機関に浸透している。我々は一応、この発展の必要性は認める。しかし、その裏に含まれた深刻な意味合いも理解しなければならない。 〈中略〉 軍産複合体が、不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、政府も議会も特に用心をしなければならぬ。この不当な力が発生する危険性は、現在、存在するし、今後も存在し続けるだろう。この軍産複合体が我々の自由と民主的政治過程を破壊するようなことを許してはならない。」


●この"退任"演説の3日後に、ジョン・F・ケネディが大統領に就任。彼の対キューバ政策や対ソ連政策、対ベトナム政策などは、軍産複合体の利益と真っ正面から衝突した。

ケネディ暗殺の首謀者が誰なのかは知らないが、「2039年には全面的に真相を公開する」というアメリカ政府の声明は謎めいて聞こえる。

 

 
第35代大統領ジョン・F・ケネディ。右はケネディ暗殺の瞬間 (1963年11月)

 

 


 

■■第7章:葬られたスミソニアンの「原爆展」


●1995年、国立スミソニアン航空宇宙博物館で、「大戦終結50周年記念特別展」として、エノラ・ゲイを中心とする「原爆展」の開催が予定された。

この「原爆展」では、広島・長崎の被爆の様子も大きくとりあげ、被爆者の様々な遺品も展示される予定だった。アメリカではほとんど知られていないキノコ雲の下で起こった悲惨な出来事にも光を当てることで、核兵器の全体像をとらえようという意図だった。

 


スミソニアンの「原爆展」を企画した
マーチン・ハーウィット館長

 

●しかし、この企画はアメリカ国内で大きな反発を招いた。

多くのアメリカ人にとって、第二次世界大戦は正義と民主主義を守るための「よい戦争」であり、原爆の投下は戦争の終結を早めたと考えられているからだ。そのため、B29とキノコ雲は、アメリカにとって、勝利と栄光のシンボルである。

この「原爆展」の前に、アメリカはキノコ雲をデザインした「原爆切手」を発行しようとしたが、日本の反発で発行中止となる騒ぎがあった。この騒ぎで、アメリカ国内に、日本への原爆投下が残虐行為として認定されてしまうのではないかという危機感が広がり、この危機感がそのまま「原爆展」への反発へとつながっていったのである。

 


第二次世界大戦終結50周年を記念して、
1995年にアメリカが発行しようとした「原爆切手」

「原爆の投下が戦争の終結を早めた」という文章が
刷り込まれていたが、日本の反発で発行中止となる

 

●スミソニアンの「原爆展」への反発は、やがて、保守派を中心に議会や大統領まで巻き込んでの大きな動きとなった。特に「原爆展」反対を大きく唱えた団体は、「全米在郷軍人会」なる組織であった。

こうした動きに関連してクリントン大統領は、「原爆展」の中止を支持するとともに、「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」と言明した。

 


第42代アメリカ大統領
ウィリアム・クリントン

「トルーマン大統領が下した原爆投下の
決断は正しかった」と言明した

(トルーマンもクリントンも、同じ「民主党」である)

 

●結局、「原爆展」は、50年前に勇敢に戦ったアメリカ兵を侮辱するものだとされ、中止に追い込まれてしまい、B29「エノラ・ゲイ号」だけを展示するものに差し替えられてしまったのである。

 


国立スミソニアン航空宇宙博物館に展示された
B29「エノラ・ゲイ号」 (1995年)

 

●この「原爆展」を企画したマーチン・ハーウィット館長は辞任に追い込まれてしまった。

彼は「原爆展」企画から中止までの経過を一冊の本にまとめて出版したが、取材に訪れた日本人記者に対して、「『原爆展』の挫折で日本人に学んでほしいこと」として、次のように語っている。

「"戦争教育"は、ある意味において諸刃の剣にも似た危うさを伴っています。もちろん"アメリカの正義"を主張するのも大切ですが、その側面だけを強調して、他の側面(被害者の立場)を捨象してしまえば、単なる戦争礼賛のためのデモンストレーションとなってしまいます。私は必死に説得活動を続けましたが、結局、私の考えは拒否され、館長を追われる結果となってしまいました。

このたび、考えに考えたすえ、ようやく脱稿した『拒絶された原爆展』という本が出版されましたが、真の"戦争教育"とは何かという主題をみんなで徹底的に議論してほしいという祈りをこめてこの書を世に問うたつもりです。

日本では、アメリカのタカ派とは全く逆の論調から、ややもすれば『加害者の立場』のみが強調されがちだと聞きますが、これもまた戦争の一面だけしか伝えないという意味において実に危険なことだと思います。スミソニアン博物館で何が失われ何が得られたかという議論を通じて、日本の"戦争教育"のあり方をもう一度真剣に考え直してもらえれば……と、私はいま痛切に感じています。」

 


『拒絶された原爆展』
(みすず書房)

スミソニアンの「原爆展」はなぜ挫折したのか?
「原爆展」企画から中止までの経過を、
館長を追われたマーチン・ハーウィット
自らがつづったドキュメントである

 

●この「原爆展」の諮問委員会を務めた、スタンフォード大学の著名な歴史学者であるバートン・バーンスタイン教授(ユダヤ人)は、アメリカの外交雑誌『フォーリン・アフェアーズ』に「広島再考」と題した論文を寄稿し、対日戦の早期終結に向け「アメリカ指導者は原爆使用以外の道を探求しなかった」などと、日本への原爆投下に批判的な説を展開した。

バーンスタイン教授は、「マンハッタン計画」の目標委員会の会議録などをもとに、ニューメキシコ州での爆発実験前から日本での投下先が詳細に検討され、都市中心部に目標が定められていた事実を紹介しながら、アメリカ指導層が当初から市民の大量犠牲を前提にしていたと指摘。

原爆投下が早い段階で既定路線になった背景として、彼はアメリカ軍によるドイツの「ドレスデン空襲」や「東京空襲」など戦略爆撃の例を挙げ、指導層や国民の戦争モラルが変質したと強調。「民間人の大量殺傷」を許す素地があったため、原爆投下を避けようとはしなかったと主張している。

 


バートン・バーンスタイン教授

スタンフォード大学のユダヤ人歴史学者。

原爆問題について30年近く研究を続け、
現在、原爆史研究の第一人者である。

 

また彼は、こうした「道義感」の変質を「第二次世界大戦の産物」とし、

ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害(ホロコースト)と、アメリカの原爆投下に本質的な違いはないと結論づけている。


●更にバーンスタイン教授は、次のように主張している。

原爆が戦争終結を早めたという議論の根拠はとぼしく、たとえ原爆を投下していなくても、ソ連の参戦によって11月前には日本は降伏していただろう。加えてアメリカの指導者の中で、1945年春から夏の段階において、『50万人のアメリカ兵の命を救うために』原爆を使用すべきだったと考えていた者など一人もいなかった。

広島や長崎への原爆投下を可能にしたのは、20億ドルもの資金を投入したプロジェクトの持つ政治的・機構的勢い、そして第二次世界大戦の熾烈な戦闘を通じて、(市民を戦闘行為に巻きこまないという)旧来の道徳観が崩れてしまっていたからに他ならない。

この道徳観の衰退こそ、後における核兵器による恐怖の時代の背景を提供したのである。

ドイツや日本の軍国主義者たちだけでなく、なぜアメリカを含むほかの諸国の道徳観までもが荒廃していたのか、この点にこそ我々が歴史の教訓として学ぶべきテーマが存在する。」

 

 


 

■■第8章:都市に対する無差別爆撃そのものが犯罪である


●スミソニアンの「原爆展」が中止になってからすぐに『スミソニアンの判断』という本がアメリカで出版された。

内容は「原爆展」中止に至るまでの経過の解説と、幻の企画書全文の紹介で、残り3分の1は前出のバーンスタイン教授の長い論文が占めていた。

この本を編集したのは、フィリップ・ノビレという異色のアメリカ人ジャーナリストで、彼は「アメリカ政府は原爆投下について日本に謝罪すべきだ」という考えの持ち主である。

 

 
(左)アメリカ人ジャーナリスト、フィリップ・ノビレ。
(右)彼が編集した『スミソニアンの判断』。
「原爆展」についての内容である。

 

このフィリップ・ノビレは、都市に対する無差別爆撃=「戦略爆撃」そのものが犯罪であり、広島・長崎はその極限に位置すると捉えている。

広島・長崎はそれが「核爆弾」だったからいけないというのではなく、東京その他の日本の都市、ドイツのドレスデン、そして広島・長崎を挟んでのベトナムのハノイ・ハイフォン・バグダッドにまでつながってくる20世紀の戦争に特有の、「戦略爆撃」の歴史の中で位置づけなければならないと言う。

彼は次のように述べている。

「戦略爆撃、すなわち都市に対する無差別爆撃は悪魔的で残酷な行為であり、ローマ教皇も『無差別爆撃は神に対する犯罪である』と言っている。多くのアメリカ人は都市爆撃そのものがすでに間違いだったということに気付いていない。 〈中略〉 爆撃する側も払うコストが大きく、ヨーロッパではアメリカ軍の戦死者の10人に1人が飛行士だった。いずれにせよ、アメリカ人が、われわれは善人であいつらは悪人だと考えているうちは、真実の全体像は浮かんでこない。

わが国は、日本とドイツの戦争犯罪人を裁判にかけて絞首刑にしたわけだが、同時に自分自身も罰すべきなのだ。善意に満ちたアメリカ人が日本人と協力して、トルーマン大統領やチャーチル首相の戦争当時の意思決定や行動について徹底的に調査して、彼らを戦争犯罪人として裁く法廷を開くべきだ。」

 


廃墟になったドイツのドレスデン (1945年2月13日)

米英空軍の4日間にわたる徹底した無差別爆撃で、
宮殿や教会など18世紀バロック建築の建ち並ぶ
文化の街は一変、ガレキと化した

 

●ところで、日本本土への爆撃作戦(戦略爆撃)の司令官を務めたのは、ユダヤの血をひくアメリカ人、カーチス・ルメイ少将である。彼は対ドイツ爆撃(ドレスデン空襲その他)で実績を上げ、「空の英雄」と呼ばれていた。

彼は日本の家屋が木と紙でできていることに注目して、それまで補助的に使われてきた、油脂をばらまいて炎を広げる焼夷弾(Incendiary bomb)を用いて焼き払う方法を考え、ユタ州の砂漠に日本の家屋を建てて焼夷弾を投下してその効果を確かめもした。すなわち、最初から家屋を燃やし、日本人を焼き殺すという目的があったのである。

アメリカ軍による日本本土への爆撃は、最初は、武蔵野の中野飛行場など軍需工場を狙う「精密爆撃」だった。ところが、カーチス・ルメイが作戦の司令官に任命されてから、一般庶民皆殺しのために焼夷弾を投下する「無差別爆撃」に変わったのである。(これは非常に重要なポイントである)。

 


日本本土への爆撃作戦の
司令官を務めたカーチス・ルメイ

戦後は、戦略空軍(SAC)司令官、
空軍参謀総長などを歴任。ケネディ政権時には
キューバやベトナムへの「核攻撃」を主張した。
(ベトナム戦争で北爆を推進したのは彼である)。

1968年の大統領選では、無所属で出馬した
ジョージ・ウォレスの副大統領候補になった。
1990年10月1日に死去。享年83歳。


 
焼夷弾(Incendiary bomb)

この焼夷弾が投下後に38個の子弾(右)を空中で放出し、
その衝撃により爆発、高温の油脂が飛び散って燃え広がる。

この焼夷弾の「実戦的テスト」がユタ州で日本の典型的町並みを
再現した標的に対して行なわれ、最高の効果を示した。

 

●アメリカ軍は1944年11月1日から都市空襲を本格化させ、六大工業都市を狙った後、

人口の多い順に日本全国64の都市を火の海にして、焼け野原にした。

1945年3月10日の東京大空襲では、40kuの周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。その後、約100万発(2000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が投下された。

こうして、一夜のうちに10万人以上の民間人(非戦闘員)が生きたまま焼き殺された

まさにホロコースト状態である (ホロコーストは「焼き殺す」という意味を持つ)。

これが虐殺でなくて一体何が虐殺か?

 

 



カーチス・ルメイの指揮のもとに行なわれた
1945年3月10日の東京大空襲では、300機以上のB29爆撃機が
大編隊を組んで、無差別じゅうたん爆撃をした。約100万発の焼夷弾を落とし続け、
人も家屋も焼いて焼いて焼き尽くしたのである。一夜にして10万人の民間人が
焼き殺され、関東大震災をはるかに上回る面積が焼失した。運河も道路も
公園も、逃げながら焼け死んだ黒こげの死体で埋め尽くされた。

まさに「ホロコースト状態」である。これは原爆投下に
匹敵する戦争犯罪であり「大虐殺」であった。


空襲後、廃墟となった東京



3月以降も東京への空襲は続けられた。3月10日に
次いで被害の大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、
それまで空襲を受けていない山の手が主な対象になった。

 

 
女性も子供も、生きたまま焼き殺され、黒こげになった死体の山

 まさに「東京大虐殺」と呼ぶにふさわしい凄惨な事件である…

 

●対日戦略爆撃を指揮したカーチス・ルメイは、戦後、回想記のなかで次のように述べている。

「原爆を落とすまでもなく太平洋戦争は実質終わっていた」

「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊したのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。女、子ども、老人も全て戦闘員だった。」



このカーチス・ルメイは、明らかに東京大空襲を始めとする無差別爆撃および原爆投下の直接の責任者である。(日本人は彼を「鬼畜ルメイ」と呼んだ)。

しかし1964年12月6日、日本政府は彼に対して「勲一等旭日大綬章」(勲章)を授与した。授与理由は「戦後、日本の航空自衛隊の育成に協力した」からだという……。

日本の100万もの民間人を虫ケラのように虐殺した人物に勲章を与えてしまった日本政府の態度は卑屈以外のなにものでもない。無残である。

この時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。

 



1964年12月6日、日本政府は、
日本人を大量虐殺したカーチス・ルメイに対して
「勲一等旭日大綬章」(勲章)を授与した。

※ この勲章(上の写真)のデザインは、輝く太陽を
宝石やプラチナが取り巻く形になっている。この勲章は
日本のため最大級の功績があった人にしか贈られず、
今までも皇族や総理経験者など、数えるほどの
納得できる人にしか贈られていない。

※ なお、勲一等に叙する勲章は本来、
授与に当たって直接天皇から渡される
 のが通例であるが、昭和天皇はカーチス・
 ルメイと面会することはなかった。

 

 


 

■■第9章:原爆投下を肯定する在米ユダヤ人組織「SWC」


「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」というユダヤ人組織がある。


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「SWC」は、第二次世界大戦中のナチスによるホロコーストを記憶し、ユダヤ人の人権を守るため、1977年に設立された組織である。その名前は"ナチ・ハンター"の異名を持つサイモン・ヴィーゼンタールを記念して付けられている。本部はロサンゼルスにあり、ニューヨーク、シカゴ、ワシントン、トロント、パリ、エルサレムにもオフィスを開設している。

 


"ナチ・ハンター"の異名を持つ
サイモン・ヴィーゼンタール

 

●アメリカだけでも会員が40万人を超える「SWC」の影響力は、計り知れないものがある。

「SWC」の力を日本人に知らしめたのが1995年に起きた「マルコポーロ廃刊事件」である。(この事件に関する詳細は、別ファイル「日本に圧力をかけるシオニスト組織『SWC』」をご覧下さい)。

 

 
「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」が運営する
「寛容の博物館(Museum of Tolerance)」=ホロコースト博物館

センターが運営するこの博物館は、1993年2月にロサンゼルスに設立された。
館内は「マルチメディア資料室」 「公文書資料室」 「ホロコースト・セクション」の
3つに分かれており、コンピュータを活用したマルチメディアや実際の展示品
などによって、ナチスの残虐さについて理解を深めることができるように
作られている。年間40万人を超える来館者があるが、このうち
約15万人は学校の授業で訪れる子供たちだという。



博物館の内部(ガス室を模した学習ルーム)

 

●この「SWC」は広島・長崎の原爆投下についてはどのような見解を持っているのだろうか? ナチスのホロコーストに匹敵する悲劇だと思っているのだろうか? アメリカが犯した「戦争犯罪」だと思っているのだろうか? 

この「SWC」の主張と活動を知る上で、非常に興味深い取材記事がある。『新潮45』(2000年12月号)に掲載された、『特別インタビュー 「ユダヤは怖い」は本当ですか? 「SWC」のアブラハム・クーパー副館長に聞く』という新潮社編集部の取材記事である。


●この取材記事の中で、「SWC」の副館長であるラビ、アブラハム・クーパーは、南京虐殺事件と原爆投下について驚くべき見解を披瀝している。

取材記事の一部分を下に掲載しておくが、これは、日本人にとっては看過することのできない内容であろう。

 

 
(左)『新潮45』(新潮社)2000年12月号
(右)「SWC」の副館長であるラビ、
アブラハム・クーパー

 

〈南京虐殺事件に関して〉

◆編集部 : 「SWC」は『ザ・レイプ・オブ・南京』を書いたアイリス・チャンをサポートしていると報じられています。けれど、彼女の本には多くの間違いがあることが指摘されています。

◆クーパー: アイリス・チャンだけではなく、本多勝一氏を招いてフォーラムを開きました。多くのアジア系アメリカ人の活動家がこのフォーラムに参加してくれました。

◆編集部 : アイリス・チャンと本多勝一という人選はあまりに偏っています。否定派は招かないのですか?

◆クーパー: センターとして色々オープンな形で受け入れるけれども、「犠牲者はわずかに3、4万人」というようなことを口にする人を講師として招くことは、絶対にしません。


〈原爆投下に関して〉

新潮社編集部の「第二次世界大戦で人類に対する明らかな犯罪が2つあったと思います。ひとつはホロコースト、もうひとつは原爆投下です。その責任追及を『SWC』がする予定はないのでしょうか?」の質問の中で、次の問答がある。

◆編集部 : 原爆による無差別爆撃の事実は明らかで、これは戦争犯罪ですから、アメリカの戦犯追及を考えるべきです。

◆クーパー: 率直にお話ししますが、個人的に言うと、私は原爆投下は戦争犯罪だと思っていません。

◆編集部 : それは納得できません。非戦闘員の殺害は明らかに戦争犯罪じゃないですか。

◆クーパー: ノー。戦争というのは非常に悲惨な出来事なわけですけれども、2つの原爆を落としたことで、戦争が終わったという事実はあるわけです。もしトルーマンが原爆を落とさなければ、さらに多くの死傷者が出たでしょう。

 

●上の取材記事からも分かるように、「SWC」に代表されるシオニスト・ユダヤ人勢力は、自分たちのホロコースト体験は世界に向けて盛んに宣伝するが、他民族が体験したジェノサイド(ホロコースト)に対しては無関心(冷淡)のようである。現在、パレスチナで進行中のホロコーストに対しても冷淡で、むしろユダヤ人によるパレスチナ人の虐殺を積極的に支持している有様だ。

「SWC」を「平和・人権団体」と呼ぶ人がいるが、「SWC」は非ユダヤ人の平和・人権に関しては無頓着だといえる。その偽善ぶりに、最近では、「SWCはホロコーストを商業化している!」として、一般的なユダヤ人からも批判が出ている。(この件に関しては別の機会に詳しく触れたい)。



●なお、日本政府や日本の民間諸団体は、以前からイスラエル政府に、ユダヤ人の災難犠牲者と原爆被害者を合同で追悼するよう呼び掛けている。

つい最近、日本政府はイスラエル政府に、ユダヤの「イェド・ファシム機構」のような「日本災害機構」を広島市に建設する計画を提案したことがある。イスラエルからユダヤの災難を表す物品を提供してもらい展示するというものだった。

しかしこの要請は断られた。

イスラエル政府の外務省高官は、「日本には敬意を表するが、2つの災難を比較することは出来ない」と語った。

 

 

 

このことから分かるように、在米ユダヤ人組織やイスラエル政府は、ユダヤ人が被った災難と、広島・長崎への原爆投下同列に扱われることを非常に嫌がっているのだ……。

もっとも、ユダヤ人たちの気持ち(心情)は分からないでもない。

「アウシュヴィッツの悲劇」を、「原爆の悲劇」とは比較することのできぬ「人類史上最悪の出来事」として、このままずっと世界中の人々に強くアピールし続けていきたいのだろう。


●しかし、当館は声を大にして次のように主張したい。

「核兵器は『ホロコースト兵器』であり、大都市を一瞬にして"焼却炉"にし、一般市民の命を無差別に奪いとる『炎の絶滅兵器』である。

広島・長崎への2度にもわたる原爆投下は、アウシュヴィッツの悲劇に勝るとも劣らない『人類の悲劇』であった」と──。

 

 
核兵器は大量の人間を一瞬にして焼き殺す「炎の絶滅兵器」である。
通常の爆弾と違って、深刻な「放射能汚染」を引き起こすのが大きな特徴である。

このような悪魔の兵器が、二度と都市に対して使われることがないように祈りたい。

 

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以上で「本論」は終了です

ここより下はサブテキスト(追加情報)です

 




 

■■追加情報 1: イスラエル在住の日本人からのレポート


●下は、とあるイスラエル在住の日本人が書いたレポートである。この文章を読むと、ユダヤ人の中にも、アメリカの対日原爆投下に対して強い疑問を抱いている人がいることがわかる。参考までに、どうぞ。

 

── なぜトルーマンは日本に原爆を落としたのか? ──


イスラエルに移住して、キブツでビジネスに携わる40代のカナダ系ユダヤ人のA氏と話したときのこと。国際法にも詳しく、弁護士資格も持つA氏は、歴史には疎いといいながらも、私の妻が長崎生まれだと教えると、話題がアメリカの原爆投下の話になった。

「日本人は原爆投下でアメリカを非難しているのか?」とA氏。「少なくとも高校までの歴史教育では、アメリカを非難する論調はなかった」と答えると、「どうして?」と不思議そうにさらに尋ねてきた。

「日本の歴史学者は左翼が多く、戦争に導いた日本の旧指導部を非難することはあっても、原爆を投下したアメリカを非難することはあまりない」などと答えておいたが、自らを振り返り、原爆投下の功罪を大学生になって、自ら歴史を勉強するようになるまで考えることのなかった教育環境についても考えさせられた。

「しかし、アメリカでも、本土決戦に突入した場合、アメリカ軍に50万から100万人もの犠牲者が出ると想定し、その前に原爆投下をしたことで日本の早期降伏をもたらしたとの、いわゆる原爆投下を正当化する意見もあるが…」とこちらが問い返すと、「それは詭弁だ」とA氏。

A氏によれば、仮に原爆投下で日本を早期降伏に導くつもりなら、北海道の原野など過疎地域に原爆と落とし、その威力を日本の当時の指導部に知らしめることで十分、その目的は達せられたというのだ。

それをわざわざ人口密集地に落とし、非戦闘員である多数の婦女子を含む一般市民を大量虐殺したのは、やはりアメリカの大きな戦争犯罪である、と指摘するのである。

A氏の話を聞いていて、当時のアメリカ指導部(トルーマン大統領など)は、大量殺戮兵器の威力を具体的な人体実験で試してみたいという"悪魔の思想"に取りつかれていたのではないか、との考えがよぎった。そして人体実験には白人ではない日本人を選択した……。

日本の歴史学者などは、過去の日本の悪事を暴くのに熱心だが、アメリカの原爆投下の真意なども、冷静な目で研究すべき課題ではないのか。ユダヤ人A氏との会話で、そう強く感じた。

(1997年8月13日)

 

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■■追加情報 2: ユダヤ人科学者テラー博士は語る 「広島への原爆投下は間違っていた」


●「原爆・水爆・SDIの父」とも「大量殺戮兵器の父」とも呼ばれるエドワード・テラー博士

彼は1958年に、「ロスアラモス研究所」に代わる第2の核兵器研究所「ローレンス・リバモア国立研究所」の所長に就任し、その後カリフォルニア大学バークレー校で教える傍ら同研究所の副所長を務めた。

 


ユダヤ人科学者エドワード・テラー

レーガン時代にアメリカ科学界最高峰の
栄誉とされる「アメリカ国家科学賞」を受賞

 

●彼は絶えず「核計画推進」の主張者であり続け、実験と開発の継続を訴えた。

(この「ローレンス・リバモア国立研究所」は、冷戦中、アメリカの核戦略ミサイルの10発中9発の核弾頭の開発を担った。またSDI研究の中心地として活躍した)。

 

 
(左)「ロスアラモス研究所」に代わる第2の核兵器研究所として、
1952年にカリフォルニア州に作られた「ローレンス・リバモア国立研究所」。
(右)1984年に「SDI計画」の予算を使い同研究所内に設けられたレーザーの
実験施設「ノバ」。10本のレーザーを使い、当時世界最大出力を誇ったが、
膨大なエネルギーを消費するため、1日に数度しか運転できなかった。

 

●テラー博士は晩年、「ローレンス・リバモア国立研究所」の名誉所長に指名され、その後、非常に高齢なため現役を退き、コロラド州デンバーから飛行機で1時間半ほど飛んだ、サン・ホセという街の郊外で、美しい環境に囲まれた2階建ての家に、夫人と2人きりで生活していた。

 

 
晩年のテラー博士

 

●1993年6月8日、テラー博士はニューメキシコ州のロスアラモス市で開かれた原爆開発50周年の記念イベントで講演し、次のような貴重なコメントを残している。

「広島に原爆を投下するよりも、東京湾のように被害が少なくて済む場所で爆破して戦争を終結する方法もあった……」


●この件に関しては1993年6月10日付『朝日新聞』夕刊で詳しく報じられているが、

この後の朝日新聞の取材に対しテラー博士は、「広島への原爆投下は核時代の誤った幕開け(wrong start)だった」とも話したという。


※ テラー博士は2003年9月に、脳溢血のため死去した。95歳だった。



●ちなみに、最初に原爆製造を進言したユダヤ人科学者レオ・シラードも、戦後、次のように述べていた。

「振り返ってみると、示威についての議論は示威の可能性をあまりに強調しすぎたと思う。私たちが十分議論しなかったことは日本は必ず負けるということであった。

この戦争は『政治的手段』で終わらせることができ、『軍事的手段』で終わらせる必要がなかった。」

 


ユダヤ人科学者レオ・シラード

彼は最初に原爆製造を進言した男だが、
ナチスの脅威が去ると、対日戦争での
原爆使用に対して、最後まで
「反対請願」を展開した

 

●大戦中、「マンハッタン計画」に参加したフェルト博士も次のように述べている。

「何といっても、最初の原爆投下はある意味では、わき目もふらずにあれほど強く専念してやったことが成就したものであった。

しかし、2発目(長崎)の原爆によって我々は『一体どうなってしまっているのか。こんなことを放っておいてよいのか』と疑いを持った……」



●この博士が述べているように、なぜアメリカは2発目の原爆を使用する必要があったのか?

なぜ、広島を破壊した後、しばらく様子を見ることもなく、すぐに(3日後に)長崎を破壊したのか?

この問題について、ある歴史研究家は次のように述べている。

ヒロシマについで3日目、ナガサキに原爆が落とされた。これにはさすがにアメリカ市民の間でも早過ぎるという非難の声があがった。

また現在にいたるまで、もし日本の軍部がもっと早く調査をし、政府が早く終戦の決定をしたならナギサキは防げたと考えられている。しかし、この観察には一番重要な要素、すなわち主導権を握っていたアメリカが欠けている。

なぜ2発目が時間を置かずに相次いだのか?

これも原爆投下は誰が、いつ、何の動機で決定したかの問題である。

当時、トルーマン大統領は、実は日本が降伏しようとしまいと、あまり関心はなかった。だからこそポツダム宣言を発表して日本に降伏勧告はしたものの『原子爆弾を使うぞ』とも言わず、また宣言から『天皇制は存続させてもよい』保障を削ってしまった。

したがって、ポツダム宣言が日本政府に〈黙殺〉されたからヒロシマ攻撃を発令したのではない。また、ヒロシマがやられてもまだ降伏しないからナガサキを攻撃せよ、と命令したのでもない。その証拠は存在しない。

当時、原爆開発の司令官だったレズリー・グローブス陸軍少将は、日本が早く降参しないようにと祈っていた。同時に早く原爆が出来るようにと祈っていた。

1945年6月と7月、『急げ! 金も手間も材料も惜しむな! とにかく急げ!』の厳命がマンハッタン機構の隅々にまで走っていた。これについての証言は、いくらでもある。 〈中略〉

結局、アメリカの指導者たちは原爆を人間が密集するエリア(都市)に落とすことで、その殺傷能力(破壊力)を観察したかったのだ。それは、ウラン型とプルトニウム型という2種類の異なる原爆を連続して投下したことからも分かる。また彼らは、原爆のテスト(生体実験)と同時に、戦後の覇権争いをにらんで、アメリカの力を世界に誇示したかったのである。

つまり2発の原爆は、日本政府を威嚇するためではなく、世界(特にソ連)を威嚇するために使用されたのだ。

 


退任直前の陸軍長官スチムソンから勲章をもらう
レズリー・グローブス陸軍少将 (1945年9月13日)

グローブスは原爆開発のための「マンハッタン計画」を
指揮した。高圧的な性格で、何かトラブルが起きるとすぐ
「オレは大統領のお墨付き。文句があるなら大統領に言え!」と
怒鳴り散らしたという。(彼は京都への原爆投下を主張していた)。

 

●1999年12月20日に世界三大通信社の一つである「AP通信」に加盟する、世界36ヶ国にある71の報道機関が選んだ「20世紀における20大ニュース」の1位に選ばれたのは、広島・長崎に対する原爆投下であった。ちなみに日本軍の真珠湾攻撃は18位だった。

世界のジャーナリストが原爆投下を20世紀最大のニュースとしたのは、核兵器の使用が人類史上、希にみる残虐な行為であり、 国家(アメリカ)が犯した最大の過ちだったからである。

 

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■■追加情報 3: 『原爆機反転す ─ ヒロシマは実験室だった』──「反転爆撃」説の紹介


●戦時中、広島で原爆を体験した若木重敏氏は、アメリカ軍の爆撃機B29は、広島への原爆投下に先立って「巧妙なトリック」を仕掛け、人間の被害を極大にしたと述べている。

(1994年に出版された若木氏の著書『原爆機反転す ─ ヒロシマは実験室だった』光文社より)

 

 
『原爆機反転す ─ ヒロシマは実験室だった』
若木重敏著(光文社)

著者・若木氏は京都大学理学部卒の工学博士で、
戦後は、抗生物質並びに抗ガン物質の研究に従事し、
1972年に「紫綬褒章」受章、1987年に「勲三等旭日中綬章」受章、
1989年には「高松宮妃癌研究基金学術賞」と
「ベルギー王冠コンマンダー勲章」を受章

 

若木氏によれば、8時15分の前に、爆撃機は広島市上空を旋回し、警戒警報を出させ、その後いったん飛び去り、警報が解除されて市民が安堵感から防空壕や家から外に出てきた頃合いを見計らって、直ちに「反転」して広島市上空に戻り、原爆を投下したという。

その証拠に、「エノラ・ゲイ号」とその僚機の当日の航路など、具体的な行動記録については現在に至るまで公表されていないという。

 


広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ号」

 

●若木氏は次のように述べている。

爆撃を行なった当のアメリカの権威ある数多くの著書のどれにも、エノラ・ゲイ号が日本に近づいてから、どんな航路を取り、またどこでどのように進路を変えたかの具体的な記述をしたものは一冊もない。

これは実に異様なことである。


その異様さの第一は、日本の海軍も陸軍もNHKの放送も、豊後水道および国東半島を北上した大型3機が広島上空に来襲し旋回したので警戒警報が出されたといっているのに、アメリカのどの文献にもその3機のことについての記載が全く出てこないことだ。またアメリカの文献では一様に気象観測機のストレート・フラッシュ号が広島を襲ったので7時9分に警報が出されたと書いている。日本のどの記録にも、ストレート・フラッシュ号のことなどは問題にしていない。問題にしているのはアメリカ人だけである。

第二は、広島が被爆したときに空襲警報も警戒警報も発令されていなかったことは明白な事実なのに、アメリカの代表的な著名文献の全てが、被爆時、警報は発令されていたと、例外なく書いているのである。

この明白な2つのウソをなぜ揃いもそろって書かなければならなかったのだろうか。それは、この2点こそが、アメリカ空軍の作戦を立てた人が、日本人に、いや世界の人に最も知られたくない問題点であったからではないかと私は思うのだ。

 


『原爆機反転す』の著者・若木氏が推測する「エノラ・ゲイ号」の航路

 

●そして若木氏は自著の中で数々の「傍証」をあげながら、次のように述べている。

「私は自分の得た情報に基づき、エノラ・ゲイ号らは、いったん広島上空を西から東に飛び、ついで方向を東から西に変え、いわゆる『反転爆撃』をしたのではないかと推測している。

爆撃機(3機のB29)が広島上空を旋回し警戒警報を出させ、播磨灘に抜けたのは7時25分であり、警報解除になったのが7時31分である。 〈中略〉

……すなわち、私は爆撃機がいったん広島上空を飛んで警戒警報を出させ、ついで飛び去り、警報が解除になり人々が防空壕から出て、リラックスしたその瞬間を狙って爆弾を炸裂させた、謀略的に人間の大量殺戮実験を行なったのではないかという懸念を抱いているのだ。 〈中略〉

広島爆撃の2ヶ月前の名古屋空襲でも、警報解除後を見計らっての爆撃という同じことが行なわれ、恐るべき人員殺傷効果を上げた事実がある。警報発令、次いで解除された状態で、アメリカ空軍が爆撃して大きな殺傷効果を上げたことは、すでにヨーロッパで実験済みである。」



●「広島被爆後50年経った。そろそろ、本当のことをアメリカのジャーナリストが、調査し報告してくれてもいいのではないかと考えるのである。本書以上の検証は日本人には不可能に近いのではないかと身にしみて感じているからだ。こんな本を書くと、私は反米主義者ととられそうだが、お断りしておきたいことは私は反米主義者ではなく、むしろ親米主義者に近いつもりである。」

このように若木氏は述べておられるが、氏が主張する「反転爆撃」説は、果たして正しいのか否か──。

これは非常に重要なテーマだと思うので、今後、新しい研究(新資料の発掘など)によって、この問題が完全解明されることを期待したい。

 

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■■追加情報 4: 広島の空に白く大きく華やかに開いた「落下傘」の謎


●1945年8月6日、「エノラ・ゲイ号」とともに作戦に参加したB29「グレート・アーティスト号」(科学観測機)は、原爆投下と同時に爆発力測定用のラジオゾンデを吊るした「落下傘」を3つ落下させた。

この青空に目立つ直径3mの「落下傘」は、空を見上げた市民たちに目撃されている。

 

 
(左)「落下傘」を3つ投下したB29「グレート・アーティスト号」 
(右)この機体に大きく描かれたノーズアート(帽子を手にした芸人)

 

●広島の被爆者である河内朗氏(元・国連本部の財務官)は、著書『ヒロシマの空に開いた落下傘』(大和書房)の中で、このパラシュートの落下は一般に説明されているように、原爆の爆発を確認するための電波を出させる器具であったばかりでなく、人々を死に誘い出すための工夫であったと主張している。

 


『ヒロシマの空に開いた落下傘』
河内朗著(大和書房)

 

参考までに、この本の内容から一部分を抜粋しておきたい↓

 

■ヒロシマの空に開いた落下傘 / 河内朗著 (1985年)


原爆攻撃は最初から最後まで、綿密かつ完壁に計画された。

まず10ヶ月の長きにわたり、訓練している。1発だから1機でいいのに、2機も伴走させて人々がいかに死ぬるか、観察した。その3機を見て人々が逃げ出さないよう、あらかじめ馴らした。このような準備は、すべて、可能なかぎりたくさんの人を殺そうとしたからである。 〈中略〉

同じ理由から攻撃の時刻もわざわざ計算に入れた。

月曜日の朝、8時15分。通勤・通学のラッシュ・アワー。人々は勝手を知った身辺の防空壕を離れて移動中であった。

〈中略〉



……そして、ひどいと言えば、いまひとつ非道が残っている。

パラシュートである。

朗は江川隆の眼球が溶けて真珠になったのを目撃し、親友が「見てくれ、おれはこうして死んだ」と呼んだのだと信じた。でなければ、あれだけ多数あった死体の中で、かれとも知らず、その一体にだけ惹きつけられた理由がない。

眼球が溶けた、すなわち江川は、何かを、見ていた。

何を見つめていたのか気になった。

爆撃機は点であったし、爆弾は石ころのように落ちたのだから見えはしない。見えたのは、その数分前に、広島の空に、大きく開いた3つの落下傘に間違いない。



落下傘は「観測筒」を吊ったという。

直径35cm、全長1.6mの「観測筒」の内部にはリレーだのスイッチだの発信装置らしいものが入っている。説明も気圧測定のラジオ・ゾンデと同じように原子爆弾炸裂時の圧力その他を無線で送信したとあり、一般もまたそのように納得した。

しかし、それは日本側の自己解釈だから、マンハッタン機構側の裏づけを取る必要がある。ところが、どうしたわけか、観測データどころか、「観測筒」そのものについても説明が見つからない。犠牲者が出るとわかっていたからその場で観測したと発表するのにとがめを感じたのだろうか、とにかく、「観測筒」についてもデータについても話が全く出てこない。 〈中略〉

マンハッタン計画の司令官グローブス少将の陰険な性格と自己顕示の心理からして何かわけがあると直感し、つぎのように調べてみると、なんと、爆発力測定が無益無用であった。

兵器専門家、火薬担当官などに尋ね、科学書で裏づけを取ってみると、爆薬の強さは爆風圧で測るが、爆風圧は距離の二乗に反比例してツルベ落としの急激さで弱まるので、距離はごく精密に設定しなければならない。

1mの誤差があってもダメだという。だからこそ爆弾でも砲弾でも直撃点から少し離れてさえいれば助かる。逆に新しい種類の爆薬の効率を測るには、まず爆発点とセンサー、すなわち感知機との距離を正確に測定する。つぎに爆発させてセンサーの度合いを調べ、それを既知既定の度合いと比較する。したがって正確な2点間の長さが決め手となる。

ということは気圧源との距離を無視するラジオ・ゾンデとは全く似て似つかぬ方法なのであった。



ヒロシマの場合はどうか。

落下傘にブラ下がってフワフワ降りる「観測筒」は風向き次第、感知器はどこへ行くやら知れたものではない。一方、爆弾は石ころのように落ちる。このどちらも動いている両者の間の距離は、絶対に、測り得ない。また、そうまでムリをして概算しなくても7月16日、アラモゴードでは、動かない地上の2点間をあらかじめキッチリ測り、爆発力はすでに計算してあった。

とすると「観測筒」は全く無用──。

しかしあのグローブス少将が不必要なことをするはずがない。

よく考えてみると「観測筒」は見せかけのラジオ・ゾンデとして皆を欺くためであり、実際に必要なのは、だれ一人としてその意味を疑わないであろう「落下傘」なのであった。

なぜ「落下傘」か?

地上の人間の注意を喚起するためである。落下傘は現在ですら珍しい。当時とすれば尚更のことで、結構な見世物になった。かすかな爆音に気づいたヒロシマの人たちが不安を感じてその方角を見上げると、青く晴れた空にポッカリ、見たこともない落下傘が白く大きく華やかに開く。

思いがけない光景に人びとは袖を引き、他の人に声をかけ、アレヨアレヨと皆で3個の落下傘を見守った。

その背後に「原子爆弾」がツーと落ちつつあるとも知らないで……。

そしてその人たちはすべて死ぬか、目を焼き切られた。

〈中略〉

「そういえば、爆音がして一番先に気づいたのは落下傘だった」と繁が言った。

「ぼくも見た」と優が言った。

シルク・ロードを描いて有名な平山郁夫画伯をのぞき、他にあの「落下傘」を見て無事な人はいない。

 

※ 以上、『ヒロシマの空に開いた落下傘』河内朗著(大和書房)より

 

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■■追加情報 5: 長崎原爆で破壊された東洋一の「キリスト教大聖堂」


●長崎の浦上(うらかみ)地区は、長崎の北に位置する農村であり、戦国時代の末頃から「キリシタンの村」であった。

度重なるキリシタン弾圧に耐え、信仰の自由を得たカトリック信徒たちは、レンガを一枚一枚積み上げ、30年の歳月をかけて大正14年(1925年)、自分たちの教会=「浦上天主堂」(うらかみ てんしゅどう)を完成させた。

この大聖堂は、赤レンガ造りのロマネスク様式で、当時、東洋一と言われていた。

 

 
(左)原爆で破壊される前の「浦上天主堂」(1925年に完成)
双塔の高さは26m、東洋一の壮大さを誇っていた
(右)天主堂内部の祭壇の様子

 

この日本におけるキリスト教布教のさきがけとなった地(日本最大、最古の信徒が残った地域)に原爆を投下したのは、

皮肉なことに"キリスト教の国"だった…。

 

 
(左)長崎に原爆を投下したB29「ボックス・カー号」
(右)この機体に大きく描かれたノーズアート


 
長崎に投下する直前に撮影されたプルトニウム型原爆「ファット・マン」

(長さ3.25m、直径1.52m、重さは4.5t もあり、かなり大きい)


↑笑みを浮かべながら原爆にサインを
 書き込むアメリカの軍人たち…


 

原爆を積み込んだB29「ボックス・カー号」は、
広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ号」と同様、
早朝テニアン島を出発し、当初第1目標の小倉上空に
達するが、天候が悪かったため投下を断念、目標を
 急遽第2目標の長崎に変更したのであった…


  
長崎上空でプルトニウム型原爆が炸裂した瞬間

最高数百万度の熱火は、直径280m、
表面温度5000度の火の玉に膨れ上がり、
放射線と強烈な爆風を四方に放ちながら、
一般市民や、家と工場、学校を焼いた。

 

1945年8月9日、長崎への原爆投下により、浦上一帯は猛火に包まれ地獄と化した

爆心地から至近距離にあった「浦上天主堂」は、一瞬のうちに爆風で全壊した。

天主堂には、被昇天の祝日の準備のため信徒24名と神父2名がいたが、全員が即死した。

天主堂は深夜まで燃え続け、浦上地区に住んでいた1万2000人の信徒のうち、8500人がその日に亡くなった(爆死した)。

 


廃墟となった「浦上天主堂」(Urakami Cathedral)


爆心地から至近距離にあった「浦上天主堂」は、一瞬のうちに爆風で全壊し、
天主堂内にいた2人の神父と24人の信徒が運命を共にした。この原爆のために、
当時の浦上教区信徒1万2000人のうち8500人が爆死し、浦上一帯は廃墟と化した。

この「浦上天主堂」の廃虚は、広島の「原爆ドーム」とともに、原爆の威力と悲惨を
物語る長崎の代表的な原爆遺跡として注目されていた。「原爆ドーム」と同様に、
平和祈念のシンボルとして永久保存しようとする被爆者と市民の声は高かった。

しかし、破壊が凄まじく、保存が困難であるなどの理由で、1958年、ついに
「全面撤去」され、長崎はこの歴史的な"証人"を失ってしま ったのである。

 

●浦上の信徒たちの願いは、一日も早い「神の家」の再建だった。

「浦上の聖者」とあがめられた永井隆博士は、「浦上天主堂」の残骸撤去を支持し、こう述べていた。

「こんなもの(天主堂の残骸)を見るごとに私たちの心がうずくばかりでなく、これから生まれ出る子供たちに、我々の世代が誤って犯した戦争によって『神の家』さえ焼いた罪のあとを見せたくない。むしろ平和な美しい教会を建て(再建して)、ここを花咲く丘にしたい。」

 

 
(左)永井隆・医学博士
(右)被爆の体験記録『長崎の鐘』

博士は原爆に被爆し、自ら病を患いながらも
「被爆者救護」に努めた。壮絶な闘病生活の中、
『長崎の鐘』など多くの名作を生んだ。
43歳の若さで亡くなった。

※ たくましい人間愛の物語でもある『長崎の鐘』は、
 欧米数ヶ国語に訳され、世界的反響を呼んだ。

 

●この永井博士の言葉通り、現在、浦上地区には新しく作り直された「浦上天主堂」が建っているが、戦前から「浦上天主堂」の写真を撮り続け、被爆後の残骸を写真に収めた津場貞雄氏は、1958年の旧・天主堂の取り壊し工事のときのことを次のように語っている。

取り壊しには昔ながらの万力が使われた。強力な万力を使っても、まるで壊されるのを拒むかのように天主堂はなかなか壊れなかった。そして大部分はハンマーで打ち砕かれていった。

原爆の大切な資料が消されていくことに、取り返しのつかない無念さを感じた。」


※ この津場氏と同じく、当館も旧・天主堂の残骸撤去には「取り返しのつかない無念さ」を感じる。旧・天主堂は、広島の「原爆ドーム」とともに、原爆の威力と悲惨を物語る長崎の代表的な「原爆遺跡」として残しておくべきだったと思う……。

 

 
(左)被爆した聖人の石像。どれも熱線で黒く焼けこげ、
鼻や頭部を欠いたものもあり、その姿は痛々しい
(右)溶けたロザリオ(数珠と十字架)

 

●ところで、被爆したあの日のことを浦上(うらかみ)では「浦上五番崩れ」という。

その前の「浦上四番崩れ」は明治新政府により、浦上地区のカトリック信徒が村ぐるみ「流罪」に処せられたキリシタン検挙事件を指すが、「四番崩れ」で壊滅し、その後復興した村は、再び「五番崩れ」の原爆で廃墟となった


●現在、浦上で生活しているクリスチャン女性は、こう語っている。

「ここに原爆が落とされたのは、雲の切れ間にこの町が見えたというその日の天候だけが理由で、本当は他の大都会が目的だったらしいのです。山の谷間のような地形のここでなく、広い平野の町だったら、この何百倍もの被害が出たかもしれません。

浦上は、人類史上最も悲惨な世界大戦に終止符を打つために、人間の罪の代償として天に捧げられた町だったと思います。

 


新しく作り直された「浦上天主堂」で
祈りを捧げる信徒たち

今も長崎にはカトリック信徒が多く、町全体が
静かに祈っている様な雰囲気がある。そのため、
原爆の落とされた広島が「怒りの町」と呼ばれるのに
対して、長崎は「祈りの町」と呼ばれることがある。

 

原爆文学の記念碑的作品である『地の群れ』を書いた作家・井上光晴氏は、こういう長崎の姿勢に対して、「なぜ長崎の人はもっと怒らないのか。怒り方が少ない。原爆まで妙な観光にしてしまって」(季刊『長崎の証言』3号)と嘆いた。

長崎の問題に詳しい「西日本新聞社」東京支社の編集長である馬場周一郎氏によれば、長崎には一般の日本人にはあまり知られていない"意識の断層"問題が横たわっているという。

彼は、こう語っている。


「原爆の対日投下に関するアメリカの『暫定委員会』資料によれば、もともと長崎市への投下目標は浦上ではなく、人口が密集した市街(眼鏡橋が架かる中島川付近)だった。それが、一瞬の天候条件によって浦上上空で炸裂したのだった。

これを一部の市民は『市街に落ちなかったのは、お諏訪さん(秋の大祭「くんち」で知られる諏訪神社)が守ってくれたおかげ』と言ってはばからなかった。そして『浦上に落ちたのは、お諏訪さんに参らなかった"耶蘇(キリスト教)"への天罰』との悪罵(あくば)を浴びせた。それは長いキリシタン迫害の歴史のなかで醸成された長崎の一般民衆の異教徒への信仰差別が吐かせたものであった。 〈中略〉

……同じ被爆都市ながら、広島は河口に発達した比較的平坦な地形であることから被害は万遍なく広がった。これに対し、長崎市は市街と浦上地区が山で遮られていることで被害は軽重を分けた。

加えて、カトリック(浦上)と神道(市街)の宗教的、文化的異相……。『原爆は長崎に落ちたのではなく浦上に落ちた』。長崎でよく口にされるこの言葉こそ、原爆がどのようにとらえられているかを如実に示すものといえる。

長崎の反原爆運動が広島ほど全市的な怒りの熱気を帯びないのも、こうしたことに淵源(えんげん)がある。反文明の究極兵器の使用に対して、立場や地域を超えた運動の構築が求められるのに、『俺のところには関係ない』といった他者意識が連帯を分断する。〈中略〉

……戦争においては被害者と加害者は常に裏返しの関係であり、第三者など存在しない。長崎原爆は浦上でも市街でもなく、人類全体の頭上に落とされたことを知るべきである。

 



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