環境教育は分かるけれど「教育環境」という言葉はやや聞き慣れない、と思われるかもしれません。誕生から幼児期、児童期、青年期そして成人期に至るまで、私たちを取り巻いている「環境」は、人間の成長や発達にとても大きな影響を与えています。環境には「人的」なもの、「空間的」や「動的」なもの、あるいは「時間的」なものなどがあり、それらが十分に保障された状態にないと、人間のよりよい成長・発達あるいは学びが阻害される可能性があります。その上、現代のように複雑化・高度化した社会では、環境そのものの多様化も急速に進んでいます。
教育環境学講座は、教育制度学、教育社会学、教育文化学、生涯教育学の4つの分野から構成されています。教育の場は、家庭や学校そして図書館や公民館などはもちろん、働く場所や、住んでいる地域など、多種多様なものがあり、それらはしだいに大きく変貌してきています。本講座では、このような学びの場所や機会が、今どのような状態にあるのか、これまでどのような変化をたどってきたのか、そして今後はどのような形態や組織構造になっていくことが予想されるのかなど、量的な分析や質的な分析を加えて、理論提起や中・長期的な計画の策定をめざそうとするものです。
人間の個人の状態や内面に焦点をあてる「臨床教育学講座」とともに、人間を取り巻く環境条件をどのように「最適化するか」を考えることは極めて重要なことであり、総合的で学際的な見地から、人と社会の幸せとは何かを追求する教育学の新たな分野の開拓に挑戦するものです。
2012年5月12日土曜日
大阪大学人間科学研究科/人間科学部_教育環境学講座_
2012年5月10日木曜日
ステイクホルダ−・マネジメントの提唱
1 ビジネス・エシックスとは何か
今日、企業の在り方が根本的に問われ、新しい「ル―ル」のもとでの企業経営が望まれています。ただし具体的にどうすれば企業の在り方を変えることができるのか? と問われると、返答に困るのも「事実」であり、様々な学問がそれに対する回答を求めて試行錯誤を続けているのが現状ですが、そのような学問の1つとして、経営学と倫理学が「結婚」して生まれた、ビジネス・エシックス(Business Ethics)、があります。企業経営と倫理(道徳)は相容れないものである、という「神話」がこれまで長期間にわたって企業社会を支配してきたことを考えると、ビジネス・エシックスが学問として確立してきたことは「画期的な」出来事であると言えるでしよう。
新しい学問はそれなりの社会的必然性のもとで生成・確立するものですが、このことはビジネス・エシックスにも当てはまります。
ビジネス・エシックスが独立した学問分野として形を整えはじめたのは、アメリカを例としてあげると、1980年代に入ってからであり、1985年にビジネス・エシックスは1つのアカデミックな分野として認められるようになってきました。
このような背景には、アメリカの個別企業のなかで、1970年代後半頃から(特に198 0年代以降)、自己の行動を自主的にモラル的に高めていこうという動き−−−これは後に「モラル改革運動」として総称されるようになりました−−−が拡がっていったという「現実」があります。そのモラル改革運動には次のような4つの「特徴」がありました。
1)ビジネスと倫理は正反対なものである、という前提の拒否、
2)ビジネス組織の幅広い「社会的」責任を強調する、イッシュ−・マネジメントの出現、
3)ビジネスをモラル化する手段としての政府規制の拒否、
4)組織としてのモラル行動の改善を目指した統制手段の探求。
このことは相次ぐ企業絡みのスキャンダル(例えば、大がかりな買収事件、不法な政治献金、航空機災害の多発、欠陥自動車に代表される手抜き生産の発覚、等々)に 対して、企業が対応を迫られた「結果」ではありますが、その後次第に、資本主義企業活動にも倫理的(モラル的)なものが必要である、という認識が生まれ拡がっていく「契機」ともなりました。そして今日では、そのような認識及びそれを反映した「一定の」行動は決してアメリカ企業だけに固有のものではなく、ヨ−ロッパの多くの国々においても見られるようになり、また日本でも「企業社会における倫理の在り方」に大きな関心が寄せられるようになってきました。
このようにビジネス・エシックスはアメリカにおいても日本においても、企業の非倫理的行動(=会社の不祥事)の多発という「ネガティブな」現象を介してではありますが、「企業の在り方」が問われるなかで生じたものであり、ヨリ具体的にいえば 、企業は社会的存在であるといわれる場合、その「社会性」とはいかなる意味なのか、が問われるなかで、ビジネス・エシックスは学問として生まれ「市民権」を得てきたのです。それ故に、ビジネス・エシックスは(かって1970年代に流行した)社会的責任論の流れの中で捉えられることがあります。だがそれは「皮相的な」認識であり、たとえビジネス・エシックスにそのような「一面」があることを否定できないとしても、ビジネス・エシックスは社会的責任論とは一線を画する学問です。従前の社会的責任論では企業の在り方を good な方向へと変えることはできない、という「厳しい」現状認識のもとで生まれてきたのがビジネス・エシックスだったのです。
ビジネス・エシックスは現在の我々にいかなることを問いかけているのでしようか。
2 ビジネス・エシックスの基本問題
ビジネス・エシックスは応用倫理学の1つです。応用倫理学としては、他に、バイオ・エシックス(生命倫理学)、環境倫理学、等々がすでに社会的に認知されています。倫理学とは、ものごとの「善悪」「正誤」を考える学問であり、人間社会の誕生以来、我々の生き方に大きな影響を与えてきました。そのような歴史(実績)があるのに、いまなぜ「新しい」(応用)倫理学が必要になってきたのでしょうか。それは、これまでの「判断基準」では対応できない問題が次々に出現してきたからです。例えば、医療技術の発達は臓器移植を可能にし、人間の「死」の基準を変えました。心臓死から脳死へと。だが「脳死」は誰によっていかなる基準で「判定」されるのでしょうか。人間の「生と死」を巡って様々な議論が展開され� ��います。また、自然環境の破壊がこれまでの「予想」を遙かに超えて進みつつある現状に対して、我々人類が「種」として生存していくためには限りある自然環境といかに「賢く」共存していけばよいのか、が大きな問題となり、現在−−−次世代への責任を含めて−−−「新しい」対応が求められるようになってきました。このような我々の既存の知識体系では処理できない(従来の価値基準が意味を持たない)多数の問題の出現が「応用」倫理学という「新しい」学問領域を必要としているのです。
このことは企業とその活動(⇒ビジネス)にも当てはまります。企業は我々の生活にとって不可欠の存在ですが、本来から言えば、それは人間活動の「特殊な」領域であり、いわば我々の場(市民社会)の「一」部分を構成� ��る存在にすぎないものであり、との認識が「一般的」であり、そのように理解してきてもそのことによって(市民社会全体に大きな影響をあたえる、という意味での)「大きな」問題は−−−もちろん、資本家と労働者の間の「利害対立」に関連して、深刻な問題があり、それは現在も続いていますが−−−と生じなかったのです。しかも企業の「自由な」活動の成果として、我々は「大きな」利益(⇒生活水準の向上)を享受してきたために、いわば「餅は餅屋」的に、企業活動は専門家である企業家(⇒経営者)に任せておけば「間違いがない」という考え方が「大方の」意見でした。
しかし「そのような考え方は間違いではなかったのか」という「反省」が次第に広がってきました。これは、企業社会(⇒ビジネス)が� ��民社会を次第に大きく「蚕食」し、企業本位社会といわれるように、我々の生き方のあり方を決定的に規定するようになるにつれて段々と強くなり、更に加えて企業活動が我々の生活の様々な側面に「悪」影響を及ぼすことが様々な出来事(企業の不祥事といわれているもの)を介して明白になってくると、大きな「流れ」となってきました。そしてここに企業のあり方を何らかの形で「統制・制御」しなければならない、という「思想」が生まれてきました。もちろん、これまでも企業活動は政府(⇒法律)によって規制され、一定の成果を上げてきました。しかしそれだけでは不十分である−−−これが現在の「支配的な」現状認識なのです。逆に言えば、それだけ企業の存在が「巨大なもの」になってきたということなのであり、� �新しい」ル−ルのもとで企業活動を展開していかなければ我々の市民生活そのものが「破綻」してしまうのではないか、との「恐れ」が現実化するようなところまで事態が進んでいる、ということなのです。
モラル主体としての現代企業
!doctype>2012年5月8日火曜日
バーリントンオンタリオ州の高級レストラン
それは豊富な供給のカジュアルや家族のレストランはどこでも見てあるかのように思われるが、余分な特別な夜に誰かを治療する場合高級ワイン、空想フード、そして静かな雰囲気に適した場所を見つける作業 非常に難しくなる。幸いにも住民やバーリントン、オンタリオ州への訪問者のために、市は、エレガントな夜持ってお探しの方にいくつかのオプションを提供しています。
!doctype>2012年5月6日日曜日
環境問題、対策 | ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!
見渡す限りの大草原が広がる国モンゴル。
一方北部には夏でも雪を頂く3000m級の山々が連なっている。
その麓には豊かな水と緑にあふれた美しい光景が広がっている。
広大なダルハド(Darkhad)盆地に暮らす人々は、2000年以上も前から遊牧生活を営んできた。
モンゴルの広大な草原には、悠久の歴史が刻まれている。
12世紀に現れたチンギス・ハーンはそれまで小さな部族が群雄割拠していたモンゴル高原を統一。
孫のフビライ・ハーンの時代には、東は朝鮮半島から中国全土、西はヨーロッパに及ぶ巨大な帝国を作り上げた。
しかしその後帝国は分裂。
1755年、清朝に支配され、1924年、社会主義国家として独立、1930年代、民主主義国家へ移行。
人口およそ250万人の内、3分の1以上が首都ウランバートル(Улаанбаатар Ulaanbaatar)に住み、現代的な生活を送っている。
しかしモンゴルの人々の基本的な生活様式は遊牧。
環境が異なる地域で、それぞれに特徴的な遊牧生活を送っている。
今回モンゴルを訪れたのは東京大学の月尾嘉男名誉教授。
情報通信が専門だが、世界中を探訪する中で、自然の大切さを痛感。
環境問題の解決に挑戦している。
目指すはウランバートルから北西におよそ1000km、ダルハド盆地。
周囲を3000m級の山々に囲まれ、東京都の面積のおよそ1.6倍もある。
ここは周りの山々から湧き出た水が、沢や川となって集まる場所。
また山々に降り積もった雪が春先には雨をもたらす。
こうした自然が肥沃な草原地帯を育んできた。
この豊かな自然の中で、遊牧生活をしている人々を訪ねる。
サンボーさん(71歳)は子供達や孫、兄弟など6家族、26人と暮らしている。
彼らはゲルと呼ばれる移動式住居に家族単位で住み、助け合いながら生活している。
こうした集団はホトアイル(家族や親類、仲間同士で構成される共同体)と呼ばれている。
所有している家畜は6家族あわせておよそ550頭、育てた家畜の毛皮や肉を売ることで収入を得ている。
毎日行う放牧は当番制。
6家族の中から誰かが交代で家畜の見張りをすることで、仕事の負担が減らせる。
今は夏休みなので、普段は町に住んで学校に通う子供たちも家に戻っている。
モンゴルでは、いつどんな客が訪ねてきてもまずお茶を出すのが習わし。
その日絞ったばかりの牛乳に、直接お茶の葉を入れて作るモンゴル式ミルクティー。
月尾「サンボーさんの一族は、いつごろからここで遊牧しているのですか?」
サンボー「約200年前から。
私の祖先はエルヒードと呼ばれる氏族で、元々はここから南西の方角にある県に住んでいた。
そこにいた老人が7人の子供を連れてこの地に移り住み、その子孫が私達だと伝わっている。
私達は遊牧民なので元々この地に住んでいた人は少ないと思う。
いろいろな場所から人がやってきてここに住み始めたのだ。」
朝4:30、ダルハド盆地に暮らす遊牧民達の夏の1日が始まる。
女性達が牛を囲いの中に追い込むと、子牛達が乳を飲み始める。
吸い始めて乳の出が良くなった頃に子牛を引き離して搾乳。
こうするとスムーズに搾り出せるという。
月尾「1頭からどれくらい搾れるのですか?」
三女ハグワスレンさん「ハイナグから4リットル、ヤクからは1〜2リットルくらい。
ヤクの乳には脂肪分が多く含まれている。」
夏は乳の出が良く、1日に20リットルも搾れる。
乳搾りが終わると牛達は草原へ、好きな場所で草を食べ、日が暮れると勝手に帰ってくる。
2012年5月5日土曜日
MARYSOL のキューバ映画修行
参考資料:
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「フィデル・カストロ」イグナシオ・ラモネ著/年表
「カストロの道」K.S.カロル著
「LA TIENDA NEGRA」Maria Eulalia Douglas著、その他
印字:茶=米国、緑=旧ソ連、★映画関係=青
1月 「計画の年」宣言:第1次4ヵ年計画がスタート。
だが、亡命者続出による技術者不足、資材不足、部品不足、生産ストップ、物資の欠乏という悪循環によりまもなく挫折。
キューバ国内で本格的な破壊活動が始まる。製油所、鉄道、製糖工場のほか、映画館やデパートなど一般市民の集まる場所にまで無差別テロ。内務省調査では、8月までに5780件の破壊工作があり、数百人の犠牲者を出す。
1月31日 キューバ、米州機構(OAS)から除名される。
(米、キューバの孤立化を意図)
2月3日 ケネディ、対キューバ全面禁輸(食料と医薬品のみ除外)
キューバを支援する第三国への援助停止も指示
4日 「第2次ハバナ宣言」
ラテンアメリカ諸国に武装革命路線を呼びかける。
(武力による国際主義)
2月 米艦隊がキューバの海岸線を包囲し威圧する。
キューバは、米国がピッグス湾事件に次ぐ第二の侵攻計画を立てているとし、米国の攻撃について議論するため緊急安保理事会の開催を求める。
(27日否決)
★ICAIC, 招待をキャンセルされた東ドイツへの連帯を示すため、第8回オベルハウゼン国際短編映画際への参加を取止める。
!doctype>2012年5月3日木曜日
スプートニク2号/ライカ犬
2007年11月3日。この日、生きた生物が初めて宇宙空間を飛行してちょうど半世紀を迎えた。1957年11月3日午前2時30分(世界時)、ソ連中央アジア・バイコヌール宇宙基地から打ち上げられたR−7ロケットには1匹の犬が乗せられていた。「ライカ」と呼ばれるその犬は、世界で最も有名な犬の一匹である(下)。
ライカは宇宙を初めて飛行した生物であるが、そのことよりもむしろ、その悲劇的な最後で人々の関心を惹いてしまう。当時は大気圏外からの帰還技術が無く、ライカはいわゆる"特攻"だったのだ。
ちなみにウェッブサイトの運営でアクセス解析を行っていると、訪問者がどのようなキーワードでやってくるのかよく把握できる。検索エンジン経由で当サイトへ立ち寄った方が最も用いて� �る単語は、実は「スプートニク2号」「ライカ犬」だ。長い間、この傾向は安定して変わらない…これほどまでに関心が高いのかと、改めて思わされる。
逆にこれらのキーワードで検索をかけると、犬好きな方々のウェブサイトやブログに多数出会う。彼らの関心はライカが生きて帰れなかったことに集中しているが、それは当然の反応と言える。筆者もかつて、ライカがどのような最後を迎えたのか気になっていたことがあった。
以前、ソ連が初期に行っていた犬の弾道飛行実験についてまとめたことがある。当サイトの「スペースドッグ・犬の話」がそうであるが、そこではライカ犬以前の話をご紹介した。そこでここでは、ライカそのものを軸に話をまとめてみることにしたい。(追記[10.31.2008]: 当時の我が国の報道を辿ったコラムをこちらに書いております)
◇
ソ連宇宙開発を主導していたセルゲイ・コロリョフは、かなり早い段階から生物を宇宙空間へ打ち上げることを目標とし、それに備えた研究と実験を指揮していた。それは戦後間もない1949年に遡り、この時、モスクワの空軍医学研究所に勤務していたウラジミール・ヤツドフスキー(Vladimir A. Yazdovsky)青年をヘッドハント、コロリョフの直属グループのトップに彼を据え、宇宙空間における生体研究を開始している。
ヤツドフスキーらは研究を行う上でどのような動物が適しているかを検討、1950年12月、犬の使用が正式に決定された。
なぜ犬が使用されることになったのか、具体的に目指していたリサーチは何だったのか、そして何が行われたのか…それらは「スペースドッグ」で記したので、ここでは省略することにする。1950年代の半ばになると、地球周回飛行が現実味を帯び始め、犬たちの訓練にもそれへ向けたメニューが盛り込まれるようになった。(右・1954年のコロリョフ)
1957年10月4日、人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功すると、コロリョフらにし� ��しの休暇が与えられた。しかしこの日を境に、事態は急展開したのであった…。
◇
スプートニク1号はモスクワ時間の深夜に打ち上げられた。ソ連を率いていた共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが成功の報を受けたのは就寝しようとしていた頃だったといい、淡々と「そうか、よかったな」とだけ答えて電話を切ったと伝えられている。
だが、一夜明けて世界中が大騒ぎになっていることを知り、初めて人工衛星の意味を悟ったフルシチョフ。彼は休暇へ出ていたコロリョフをモスクワへ呼び戻すと、その偉業を称え、こう言ったという。
「君たちがアメリカより先に人工衛星を打ち上げるとは思ってもいなかったよ。よくやってくれたよ、同志。そこでなのだが、来たる革命記念日までに何か目立つものを打ち 上げてくれないかね。」
何と調子のいいフルシチョフ。しかも革命記念日(11月7日)まで1ヶ月もないのだ。
だがコロリョフはしばしの検討の後、それを引き受けてしまった。しかも、犬を乗せることを確約したのだ!
コロリョフは自分の部下や同僚らに、自分がモスクワへ呼ばれ、そこでフルシチョフがご満悦であったことを語っている。犬を乗せる件は訓練の進行状況を検討した結果、可能と判断したようである。第1設計局へ戻った彼の最初の仕事は、保養地に出かけた開発チームへ即戻るよう命令を下すことだった。
10月12日までには、全員そろったという。面々を前に、コロリョフはこう伝えた。
「これから革命記念日までに、もう1機衛星を打ち上げる。それには、犬を乗せる。」
それ� ��で全く休み無しで働いていた設計局のメンバー。休暇をうち切られ、最初に聞いた言葉がこれだった。
ごく一握りの幹部以外は初めて耳にするプロジェクト。犬を飛ばすとは…しかもあと1ヶ月もないのだ!
コロリョフは続ける。
「これはフルシチョフ同志から直々に受けた命令だ。勿論時間が無いことはわかっている。公式ドキュメントなど書いている余裕はない。そこで、今後は私の指示に従って行動して欲しい。」
動揺した者も多かったに違いないが、恐らくコロリョフの放つそのオーラ、そして力強い言葉が、皆の心をひとつにまとめたに違いない。しかも、スプートニク1号の成功が国のトップに絶賛され、強力な支持を得ているのだ。
この瞬間だけは、第1設計局がソ連の中心、いや、世界の中心に あった瞬間だった。
しかしこれは、ひとつの賭でもあった。ロケットの打ち上げや衛星開発…勿論それに限ったことではないが…は、きちんとしたコンセプト、設計図とスケジュール、会議による承認の下で粛々と進められるものである。だがこのプロジェクトには、じっくりとした検討を行いながらタイムラインを定め、図面を引き、それを検討会議にかけて…云々ということをやっている時間はない。
図面がとりあえずできあがると、すぐさま作業工房に持ち込まれ、工作部隊が製作を開始する…そんなハイリスクな突貫工事が行われることになったのだ。
そして恐らく、これまで50年間に行われてきた人類の宇宙開発プロジェクトで、公式会議も経ず、文章も存在しないミッションは、これが最初で最後なのではな� ��だろうか。そもそもゴーサインからして、フルシチョフのいわば"口約束"なのだ。
歴史に残る生物の初飛行の裏側では、こんな"世界初"(そして最後)も達成されたのである。
◇
犬を飛ばすのは、スプートニク1号のような金属球を打ち上げるのとは訳が違う。それは呼吸をすれば、食事も摂るし、排泄もする。きちんとした生命維持装置は不可欠…何せ生きていなければ意味がない。しかし、重量が増したり巨大化したら飛ばせない。
そこで、犬が入るキャビンは簡単な円筒形のアルミ缶とされた。右はモスクワの工芸工科博物館(Polytechnical Museum)に展示してあるモックアップだが、一番下にアルミ缶が、その上に球形の物体、更にその上にランチジャーのような物体が見えている。
アルミ缶は勿論犬が入る気密カプセルで、直径64cm、長さ80cm。中央の球形カプセルはスプートニク1号で使用された無線発信器とバッテリー、その上のランチジャー型の物体は宇宙線・X線・紫外線観測センサーである。球形カプセルの無線発信器はスプートニク1号で用いられたものと同型であるが、「ビーッ、ビーッ」のレートは1号よりやや早い。
一方、各種センサーは宇宙環境の観測を行うもの。このミッションには単に犬を打ち上げるだけでなく、宇宙環境を定量的に把握する目的も抱き合わされていた。人体に影響を及ぼす宇宙線の認識は、延長線上にある有人� �宙飛行を意識してのものであった。
!doctype>2012年5月1日火曜日
アメリカ人になる これでいいのか、市民権取得テスト
アメリカ人になる これでいいのか、市民権取得テスト
一生アメリカに住むつもりで日本を離れたので、市民権を取得しようというのは当然のステップでした。アメリカ国民と結婚した場合、三年目にその申し込みができます。アメリカの歴史に関する口頭試問と、簡単な筆記テストがあると聞かされて、毎日のように勉強しました。
そのころにはシニア・クラークに昇格して、自分のデスクがもらえるようになっていました。フロントに立つのは、通訳が必要になったり、ピンチ・ヒッターを務めるとき程度になってました。
「ね、三権分立ってな〜んだ?」と聞くと、
「え、三権分立なんて知らないわ」
と、バイオレットが笑います。
「わたしだったらそのテスト、絶対受からないね、アメリカ人に生まれてよかった!」
なんてロリーが言ってたけど、こんなふうにオフィスの連中も、一緒になって勉強してくれたのです。
「息子の歴史の本持ってきたよ」
と、ダリーンが本を貸してくれました。ダリーンはハワイの原語でアリイといって、元貴族の家系だとみんなが言ってましたから、カメハメハ大王家の血を引いてることになります。
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