MARYSOL のキューバ映画修行
参考資料:
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「フィデル・カストロ」イグナシオ・ラモネ著/年表
「カストロの道」K.S.カロル著
「LA TIENDA NEGRA」Maria Eulalia Douglas著、その他
印字:茶=米国、緑=旧ソ連、★映画関係=青
1月 「計画の年」宣言:第1次4ヵ年計画がスタート。
だが、亡命者続出による技術者不足、資材不足、部品不足、生産ストップ、物資の欠乏という悪循環によりまもなく挫折。
キューバ国内で本格的な破壊活動が始まる。製油所、鉄道、製糖工場のほか、映画館やデパートなど一般市民の集まる場所にまで無差別テロ。内務省調査では、8月までに5780件の破壊工作があり、数百人の犠牲者を出す。
1月31日 キューバ、米州機構(OAS)から除名される。
(米、キューバの孤立化を意図)
2月3日 ケネディ、対キューバ全面禁輸(食料と医薬品のみ除外)
キューバを支援する第三国への援助停止も指示
4日 「第2次ハバナ宣言」
ラテンアメリカ諸国に武装革命路線を呼びかける。
(武力による国際主義)
2月 米艦隊がキューバの海岸線を包囲し威圧する。
キューバは、米国がピッグス湾事件に次ぐ第二の侵攻計画を立てているとし、米国の攻撃について議論するため緊急安保理事会の開催を求める。
(27日否決)
★ICAIC, 招待をキャンセルされた東ドイツへの連帯を示すため、第8回オベルハウゼン国際短編映画際への参加を取止める。
alcaponesの心は次のように何だったの
3月 ORI(統一革命組織)指導部の構成が発表される。
メンバー25名:13名(旧7月26日運動)+10人(旧PSP)+2名(旧革命幹部団)
フィデル、ラウル(7・26)、チェ、ドルティコス、ブラス・ロカ、C.ラファエル・ロドリゲス、S.アニバル・エスカランテ、ファウレ・チョモン、ラミロ・バルデス、アイデ・サンタマリア、セサル・エスカランテ、ファキン・オルドキ、ファン・アルメイダ、アルマンド・アルト、オスマニ・シエンフエゴスなど
かつてない旱魃に見舞われ、食料配給制に移行
ケネディ政権が、カストロ体制打倒のため「マングース作戦」と名づけた広範な破壊活動・暗殺計画を承認。
グアンタナモ基地の駐留米兵による挑発行為が相次ぐ。
26日 フィデルがORI指導部の分派主義を非難
アニバル・エスカランテを罷免→エスカランテ、ソ連に亡命。
29日 ピッグス湾事件の被告に相次いで判決
キューバ市民権を剥奪。総額6,200万ドルの罰金を課す。
3月、ラウル、国防相兼務のまま副首相に就任。ゲバラと並ぶ影響力を獲得。
★チェコスロバキアから『誰がためにハバナは踊る(仮題)/ Para quién baila La Habana』脚本準備のため、ウラジミール・スェッフが来る。
同作品はキューバとの合作で1963年に公開。
4月9日 米海軍、プエルトリコのビエケス湾で史上最大規模の演習
キューバ政府、再びグアンタナモ基地の兵士の挑発行為について、外交ルートを通じて米国に抗議。内容は繰り返される海と空からの爆撃、作物や工場に対する破壊行為、キューバ領内の海岸への不法上陸と殺人事件など。
4月 フルシチョフ:キューバにミサイル配置を決定(トルコのミサイル基地が使用可能となるのを見て)
4月 エスカンブライのゲリラ、ふたたび活発化。このほかシエラ・マエストラにも500名を超えるゲリラが活動。
★初のハンガリー映画週間開催
どのようにヒッピーのbに
5月 反革命勢力のキューバ侵入事件、サポタージュ
5月 フィデル、チェやドルティコス、ブラス・ロカらと相談した結果、核兵器の配備を受け入れるとソ連に返答。
6月 マタンサスで物不足に対し主婦らが抗議。ハバナ近郊のエル・カノでも商店スト発生。
ソ連、キューバに対し「中距離ミサイル」の配備を決断 → 準中距離弾道弾42基の配備決定
7月2日 ラウル国防相を団長とする軍事施設団、ソ連を訪問
7月15日 武器を積んだソ連の輸送船第一陣が極秘に黒海を出発
17日 ラウル使節団とソ連、秘密協定に調印。2ヶ月半でミサイル配備を完了させ、その上でフルシチョフがキューバを訪問し軍事協定に調印する趣旨。
7月 エスカンブライ第二戦線、DRE, MRPの三者が、反共解放軍(FAL)を編成。他のグループにも一斉蜂起に加わるよう呼びかける。
8月 百隻ものソ連船がマリエル、およびマタンサスに入港
その後1ヶ月余りの間に総勢2千人からなるソ連軍事専門家が各地に配備される。
8月12日 フィデル、公式に共同組合方式の失敗を認め、「共同組合主義者はなかば搾取者である」と非難。国営農場路線に切り替える。INRA総裁にCRロドリゲスが就任。
30日 ソ連訪問中のゲバラら、クリミアの別荘でフルシチョフと会談。ミサイル協定に関するカストロの意見書を手渡す。ゲバラは攻撃型ミサイルの配備を公にするよう主張するが、フルシチョフはこれを拒否。
8月 ファウレ・チョーモン、マルコス・ロドリゲス事件を摘発。
ロドリゲスは密告がオルドキの指示によるものだったことを告白。オルドキとブチャカは全国指導部を解任される。さらにオルドキは、裁判の過程でメキシコ亡命中にCIAと関係していたことが判明。すべての職を解任され自宅拘禁となる。
★ デンマークのドキュメンタリー監督テオドール・クリステンセンがキューバを訪れ、一連の講演や討論会が開催される。
映画ポジティブアイダホフォールズ
9月2日 ゲバラを代表とするキューバ経済使節団、核ミサイル協定を含む武器援助協定調印
5日 ソ連の大型貨物船オムスク号とポルタヴァ号(8日)が入港→中距離ミサイルを搬入
11日 ミサイル発射台、キューバに到着。
ピナルデルリオの山中に発射基地を急遽建設
10月14日 U2偵察機が撮影した写真により、大型ミサイル発射台の設置が確認される。
22日午後7時 ケネディ、全国テレビ放送:ミサイル危機の始まり
キューバ、戒厳令および総動員令を発令
42基のミサイル設置(30基が発射可能状態)、ソ連兵4万3千名
25日 国連、ウタント事務総長は3国に対し即時交渉開始を提案。
フィデル・カストロは「平和解決のための5原則」を提唱。①経済封鎖の解除 ②グアンタナモ返還 ③キューバ領内に侵入しての空中、海上査察の中止 ④亡命者による海賊行為の停止 ⑤国内での破壊活動の中止
26日 フルシチョフは、ケネディ宛の私信で、キューバに核兵器を設置したことを認める。(キューバは交渉から一方的に除外される)
27日 U2機撃墜事件(キューバ、発言権を確保しようとする)
ソ連、キューバからのミサイル撤去と引きかえに、トルコからアメリカのミサイルを引き上げる(取り引き)を提案。
30日 米・ソ妥協成立
★ 初のポーランド映画週間開催
11月1日 フィデル、米ソの妥協を非難
3日 ソ連・ミコヤン副首相がキューバを訪問(24日間滞在)
11月末 中国がカストロ支持を表明。クレムリンを非難。
★ライプツィヒ国際短編映画祭にて『あるダンスの歴史(ヨルバ組曲)』 (ホセ・マシップ監督)が初めて「金の鳩賞(グランプリ)」を受賞。ICAICにとり初の受賞となるが、その後同映画祭で、キューバは7回「金の鳩賞」を獲得する。
★ ICAIC技術陣、チェコスロバキアにて技術研修
12月12日 フルシチョフ、キューバとの連帯を強調
ケネディ:「すべての攻撃用兵器が撤去されても、対キューバ敵視政策と経済封鎖をやめるつもりはない」
その他
★ 東ドイツのKurt Maetzig監督、3度目の来キューバ。
ICAICとの共同制作で長編フィクション『プレリュード作戦(仮題)/ Preludio 11』撮影のため。完成は1963年。
★ ICAIC情報センターから「映画報(Boletín de Traducciones)」の発行開始。
内容:インタビュー、理論研究、映画および文化情報
★ ネストール・アルメンドロス、亡命
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★ 『12の椅子』 (T.G.アレア監督)公開
*アレア、経済封鎖によって購読していた海外の映画雑誌が入手困難となり苦慮すると同時に、文化的孤立を危惧。その 一方で、キューバ危機の際には、国民の意識の変化を実感する。
Marysolより
この年表は、限られた資料と個人的関心をもとに作成しているため、記述内容に誤解や偏りがあるかもしれません。ご意見、ご指摘はコメント欄にお願いいたします。
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