2012年5月18日金曜日


2012年3月

1.国名・都市名

 タイ王国(バンコク、チェンマイ、パタヤ他)(国際電話国番号66)

2.公館の住所・電話番号

3.医務官駐在公館

4.衛生・医療事情一般

 タイ王国は国土の大部分が熱帯モンスーン気候に属し、地方によって季節が異なりますが、バンコクの場合、11月から2月までの乾季、3月から5月までの暑季、6月から10月までの雨季の3つの季節に分けられます。乾季は最高気温が30℃前後で、平均湿度も50%前後と低く、比較的過ごし易いですが、大気汚染と相まって、一年で一番カゼ等の呼吸器疾患の多い季節です。暑季は最高気温が38℃から40℃に達し、外を歩くと疲労し易く、十分な休養が必要です。雨季は、暑季に比べ気温は下がるものの、湿度が高く、食中毒などを起こし易い季節です。

 医療事情は、地域及び個々の医療施設によりかなり異なりますが、主要都市の公立基幹病院や代表的な私立病院では概ね良好です。バンコクでは、代表的な私立病院の医療水準はかなり高く、日本の病院と比較しても遜色はないと言えます。それらの病院では、日本の医学部を卒業した医師或いは、日本の病院で研修経験のある医師又は看護師などが勤務しています。また日本語通訳(日本人又はタイ人)などを勤務させ、専用窓口を設けるなど、日本人受診者の便宜を図っていますので、受診の際は、それらの窓口に事前に連絡いた方が、待ち時間などが短くなることが期待できます。

 なお、私立病院では治療費等は各々の病院が独自に定めており、概して日本と比して、安価とは言えませんので、支払い時のトラブルを避けるためにも、事前に料金等を確認するか、または海外傷害保険などの保険が適用されるか確認するなどの注意が必要です。

 水道水をそのまま飲料用として用いるのは通常不適当とされています。また、タイ保健省発表の疾病統計では、最も多い病気は「急性下痢症」で例年、100万人以上が罹患しています。それに、(集団)食中毒および何らかの消化管感染症を加えますと150万人程度となります。したがって、食品衛生を含めた衛生状態は決して良いとは言えませんので、外食などをする際には十分な注意が必要です。

5.かかり易い病気・怪我

 タイ保健省の疾病統計によれば、患者数の多い病気(上位10疾患)は次のようになっています。

患者数の多い病気(上位10疾患)
順位/年 2007年 2008年 2009年
1 急性下痢症
1,290,627(83)
急性下痢症
1,256,711(49)
急性下痢症
1,284,148(65)
2 不明熱
230,212(23)
不明熱
239,874(11)
不明熱
306,650(7)
3 肺炎
142,250(1043)
肺炎
140,276(968)
出血性結膜炎
217,384(0)
4 食中毒
123,577(7)
食中毒
112,260(3)
肺炎
146,065(1156)
5 出血性結膜炎
104,364(0)
出血性結膜炎
91,383(0)
インフルエンザ
120,400(231)
6 デング熱
65,581(95)
デング熱
89,626(102)
食中毒
103,420(1)
7 水痘
63,094(1)
水痘
76,750(3)
水痘
89,246(3)
8 結核
33,849(197)
結核
34,328(184)
デング熱
56,651(50)
9 マラリア
30,889(38)
マラリア28,902(36) チクングニア熱
52,057(0)
10 赤痢
19,026(2)
インフルエンザ
20,881(2)
結核
40,051(176)

数字は患者数、括弧内は死者数

出典:タイ保健省 ANNUAL EPIDEMIOLOGICAL SURVEILLANCE REPORT

(1)急性下痢症は頻繁に見られる疾患です。外食の際は衛生管理の行き届いた店を選ぶ、食料品の保存管理・飲料水(氷を含め)に注意をすることなどが必要です。また、調理してから時間のたった食品や十分に加熱していない海産物、特に貝類は危険です。

(2)出血性結膜炎はウイルスによる結膜炎です。バンコクでは、特に雨季後半の8月から10月にかけて流行します。1週間程度で自然治癒しますが、外出後の手洗い、家族で別々のタオルを使用するなどの注意が必要です。

(3)デング熱は夜明けから日没までに活動する蚊(ネッタイシマカ、ヒトスジシマカなど)が媒介するウイルス性感染症(ヒトからヒトへは感染しません)です。ワクチンなどの予防法がなく、蚊に刺されないことが唯一有効な予防法です。例年、雨季に全国的な患者の発生がみられます。一般的に3~15日(通常5~6日)の潜伏期間のあと、突然の発熱で発症します。熱は38~40℃程度で5~7日間持続し、頭痛、特に目の奥の痛み、関節痛、筋肉痛、発疹を伴います。また軽い皮下出血が足腿部、腋下、手のひらに発熱期の最後や解熱後に現れることがあります。一般に対症療法だけで特効薬はありませんが、特別な治療を行わなくても軽症で済む例が多く、致命率はそれほど高くはありません。

(4)結核は、毎年新たに数万人が罹患しています。HIV/AIDSとの合併で死亡数が多くなっておりますが、数字的に見ても注意が必要な感染症です。

(5)マラリア汚染地域は、ミャンマー国境地帯(特にメーホンソン県、ターク県等)とカンボジア国境地域に限定しており、バンコクやチェンマイなどの都市部、プーケット島やサムイ島、パタヤなどのリゾート地では感染の危険は極めて低いとされています。

2012年5月17日木曜日



湾岸戦争はなぜ起こったのか?

イラン・イラク戦争後、イラクは巨大な負債を背負い込むことになった。
そしてイラクは湾岸の首長国に負債の帳消しをもとめた。
もうひとつ、イラクが石油価格の上昇を求めたのに対し、
アラブ首長国連邦やクウェートが石油の増産を続けたのでイラクの
不満が高まった。
戦後イランの再建が遅々として進まなかったのに対し、イラクに
対する兵器輸出が止まらなかったので中東でイラクの軍事力が
突出し、バランスが崩れてしまった。
こういう複合的な理由でイラクのクウェート侵攻が起こる。

(世界史板,湾岸戦争を教えて:9)

クウェート侵攻の後、国連軍の組織化が図られたが、当時は冷戦の残滓が
あり、ソ連、中国の拒否権によって不可能と見られた。そこで多国籍軍
の編成となり、約半年かけて世界の(西側中心)の軍隊が湾岸に大軍を
集結させた。

(世界史板,湾岸戦争を教えて:10)

アメリカは軍事面だけでなく外交面でも精力的に動きました。
イラク非難決議を国連で成立させるだけでなく、
世界各国にサウジアラビアへの派兵を呼びかけ、
結局28カ国計70万の大軍を集める事に成功します。
ブッシュ政権が特に気を使ったのはアラブ諸国に
派兵させる事でした。それによってフセインから
アラブ民族主義という「錦の御旗」を奪う必要があったのです。
「アラブの代表としてアメリカ帝国主義に挑戦する英雄」
というイメージをフセインに対してアラブの民衆がいだくと
マズイからです。
エジプトとシリアが多国籍軍に参加した事で
フセインの「リンケージ論」は役に立たなくなりました。

(世界史板,湾岸戦争を教えて:22)

クウェート自体、本来イラク領だと思っているイラクの立場はどうよ?

イラクとクウェートの国境線を決めたのは英国ですが、
クウェートがイラク領なら、トルコもイラク北部のモースルなどの
油田地帯を取り戻す権利があるということになります。
(トルコとイラクの国境線も英国が決めたものなので)

(世界史板,湾岸戦争を教えて:14)

「クウェートが欧米列強によって人工的に作られた国家だ」
というけど、それをいうならイラクもまたそうなんだよね。
イラク北部はクルド人やトルコ人が住んでいるけど、
1923年のローザンヌ条約でイギリスが油田地域の利権を
確保するためにこの地域をトルコから分離してイラクを
委任統治領として維持したから。

(世界史板,湾岸戦争を教えて:57)

第一次世界大戦でオスマントルコは崩壊し、現イラク・クウェートの地域は
イギリスの委任統治領となりました。1931年イラク・クウェート地域は
イラクとして独立しますが
クウェート地域は事実上まだイギリスの統治下にありました。
1961年、イギリスはヘドウィンの酋長を傀儡の王として
クウェートを独立させます。
イラクの油田地帯と、採掘された石油を運ぶための港湾を
確保するための動きでした。

(世界史板,湾岸戦争を教えて:31)

湾岸戦争を英語ではなんて言うのですか?

細分して、最初の防備、攻撃態勢構築のDesert Shield作戦と、
後半の攻撃部分、Desert Storm作戦に分かれます。

Gulf Warです。

湾岸の時はちゃんと宣戦布告手続きを踏んだと記憶してるんだけど、ちゃうの?

国連の秩序下では戦争と言うものは法的に存在しません。ですから『宣戦布告』は在り得ません。
ですが憲章51条に基づき、個別的及び集団的自衛権が認められています。(武力を用いての国家の防衛と考えて構いません)

自衛権の持つ要素を簡単に説明すれば、脅威が現実に迫っており、脅威のもととなっている国家(等)が、
自衛権を発動しようとしている国家に、全くの不正不法の行為を強要しようと意図している時、
自国を防衛するため、一定の制限のもと(相手側の不法行為によって生じた損害や実際的に想定される
軍事力の脅威に応じて対抗手段を採る限りは『自衛権』ですが、それを逸脱すれば『自衛権』とは見なせなくなります)、
軍事的手段などで対抗措置をとる事が可能です。
(国連憲章では実際に『武力攻撃』が発生『した』場合のみ自衛権を行使する事が
可能と定められています。よってイスラエルの『先制的自衛権』は問題ありです)

湾岸戦争時は、90年8月2日以来の安保理決議を履行するよう(8月2日以前の状態を回復するよう)に安保理決議678で勧告し、
91年1月17日までその勧告が履行されない場合は、クウェートとその同盟国(つまり多国籍軍)に、
この問題に関する諸決議を解決するための必要なあらゆる措置をとる事を認めています。
(軍事力による解決を意味します)

ですから、湾岸戦争の場合は安保理のお墨付きを得た『集団的自衛権』の行使と見なすべき性質のものでしょう。

湾岸戦争での実際のM1エイブラムスの被害はどれくらいあったのでしょうか?

合計の損害は18両。そのうちイラク軍戦車に撃破されたのは4両で、
これは1000m以内の近距離で側面から撃ちこまれたもの。
ちなみに5両は地雷による損害で、残りの9両は同士撃ちによるもの。
死者は1名もでなかったそうです。


湾岸戦争におけるイラク軍の損害は?

人的損害:33万6000人中、死者1万5000~2万2000人、負傷者空爆だけで2万数千人、捕虜8万6000人、逃亡10万人以上

海軍:187隻中、143隻を喪失。対艦攻撃能力を持つ高速ミサイル艇は13隻全て撃沈。
空軍:724機中403機を喪失。(イランへの退避・捕獲を含む)。一線級の全天候戦闘機は159機中101機を喪失。
陸軍:戦車5800両中2633両、装甲車1万1200両中1668両、野砲3850門中2196門をそれぞれ喪失。

ソースは例によって例のごとく河津幸英著「軍事解説 湾岸戦争とイラク戦争」河津幸英(アリアドネ企画)なので
米軍の見解であることには注意されたし。

日本が湾岸戦争時に多国籍軍(実質的にはアメリカ軍?)に提供したン百億ドルの戦費ってのは結局日本に戻って来る事はないのでしょうか?

貸したお金ではなくあげたお金なので戻ってくることは
未来永劫無いか


湾岸戦争後、油田消火のためアイルランドがジェット戦闘機エンジン搭載の消防車を派遣しましたが何の戦闘機のエンジンを使ったのですか?

確かマジャール(ハンガリー)で余剰になった、MiG-21のエンジンだったかと
記憶しています。

(55:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

2012年5月15日火曜日


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       ■■■■     ■■■■  キリスト教 ■■■
     ■    ■■■   ■■ ■■   情報  ■■■
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   (c)世界キリスト教情報   連絡先E-mail:cjc-skbr />====================================
  2007年4月23日(月)    第849信(週刊・総合版)☆☆
====================================

《連絡》4月16日付を、編集者の体調不良で休みましたことをお詫びします。
また多くの方からお見舞いメールをいただきました。ありがとうございました。
今信は記事が多いため、《情報レムナント》以後を(2)として別送します。

              = 目  次 =
   ▼米バージニア州の大学で銃乱射=学内外の霊的飢餓に教会対応
   ▼教皇80歳の誕生日を迎え記念ミサやコンサート
   ▼教皇、初の著書で「ダ・ヴィンチ」に反論も
   ▼潘基文国連事務総長が教皇に本部訪問要請
   ▼中国公認カトリック教会の傅鉄山司教死去
   ▼アレクシー二世、中国に正教会公認を求める
   ▼フロリダのトマト労働者とハンバーガーのマック社の交渉妥結
   ▼米ポケット聖書連盟が建設業向けに新無料福音書
   ▼ハトの大群にブラジルの神父さんお手上げ
     ▼《情報レムナント》
     ▼《メディア展望》

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
◎米バージニア州の大学で銃乱射=学内外の霊的飢餓に教会対応

 【CJC=東京】米南部バージニア州ブラックスバーグのバージニア工科大学
(チャールズ・スティーガー学長)で4月16日、学生寮と教室で銃が乱射され
32人が殺害された。犯人と見られる男はその後、自殺した。負傷者も26人に
上り、銃乱射では米史上最悪の事件となった。連邦議会上下院は犠牲者のため黙
祷を捧げた。ジョージ・ブッシュ大統領は「学問の聖域が侵された」と強く非難
、捜査を強力に支援する決意を表明した。
 同大は州立で学生数約2万6000人。昨年8月にも大学で警備員らが射殺さ
れる発砲事件があったばかり。先週も爆破予告の脅迫があったといい、警察が関
連を調べている。
 福音派系の大学宣教団体『インターバーシティ』は同大学担当のスタッフ3人
が学生180人と活動を展開しているが、関係者の中に死傷者は出なかった。1
8日正午に全学祈祷会を開催することにした。
 ビリー・グラハム伝道協会のフランクリン・グラハム総裁も遺憾の意を示すと
ともに、危機に際してカウンセリングを行える宣教師を同大学内外に派遣すると
発表した。
 福音ルーテル教会とルーテル教会ミズーリ・シノッドの共同活動『ルサラン・
ディザスター・レスポンス』も、ブラックスバーグ周辺が長期にわたって霊的飢
餓に陥り、情緒不安定も発生すると見られることから、それに対応する構え。
 教会協議会(NCC)のボブ・エドガー総幹事は「亡くなった人々の家族を思
うと牧師として心が痛む」と追悼すると共に、このような射撃事件を阻止する法
律の制定を改めて呼び掛けた。□

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
◎教皇80歳の誕生日を迎え記念ミサやコンサート

2012年5月14日月曜日


モントリオール教会巡りの料金

 上記の通貨単位はカナダドル建てになります。 日本円建て価格をチェックする お支払方法に関して

2012年5月12日土曜日



 環境教育は分かるけれど「教育環境」という言葉はやや聞き慣れない、と思われるかもしれません。誕生から幼児期、児童期、青年期そして成人期に至るまで、私たちを取り巻いている「環境」は、人間の成長や発達にとても大きな影響を与えています。環境には「人的」なもの、「空間的」や「動的」なもの、あるいは「時間的」なものなどがあり、それらが十分に保障された状態にないと、人間のよりよい成長・発達あるいは学びが阻害される可能性があります。その上、現代のように複雑化・高度化した社会では、環境そのものの多様化も急速に進んでいます。
  教育環境学講座は、教育制度学、教育社会学、教育文化学、生涯教育学の4つの分野から構成されています。教育の場は、家庭や学校そして図書館や公民館などはもちろん、働く場所や、住んでいる地域など、多種多様なものがあり、それらはしだいに大きく変貌してきています。本講座では、このような学びの場所や機会が、今どのような状態にあるのか、これまでどのような変化をたどってきたのか、そして今後はどのような形態や組織構造になっていくことが予想されるのかなど、量的な分析や質的な分析を加えて、理論提起や中・長期的な計画の策定をめざそうとするものです。
  人間の個人の状態や内面に焦点をあてる「臨床教育学講座」とともに、人間を取り巻く環境条件をどのように「最適化するか」を考えることは極めて重要なことであり、総合的で学際的な見地から、人と社会の幸せとは何かを追求する教育学の新たな分野の開拓に挑戦するものです。

2012年5月10日木曜日


ステイクホルダ−・マネジメントの提唱

1  ビジネス・エシックスとは何か

 今日、企業の在り方が根本的に問われ、新しい「ル―ル」のもとでの企業経営が望まれています。ただし具体的にどうすれば企業の在り方を変えることができるのか? と問われると、返答に困るのも「事実」であり、様々な学問がそれに対する回答を求めて試行錯誤を続けているのが現状ですが、そのような学問の1つとして、経営学と倫理学が「結婚」して生まれた、ビジネス・エシックス(Business Ethics)、があります。企業経営と倫理(道徳)は相容れないものである、という「神話」がこれまで長期間にわたって企業社会を支配してきたことを考えると、ビジネス・エシックスが学問として確立してきたことは「画期的な」出来事であると言えるでしよう。
 
 新しい学問はそれなりの社会的必然性のもとで生成・確立するものですが、このことはビジネス・エシックスにも当てはまります。
 
 ビジネス・エシックスが独立した学問分野として形を整えはじめたのは、アメリカを例としてあげると、1980年代に入ってからであり、1985年にビジネス・エシックスは1つのアカデミックな分野として認められるようになってきました。
 このような背景には、アメリカの個別企業のなかで、1970年代後半頃から(特に198 0年代以降)、自己の行動を自主的にモラル的に高めていこうという動き−−−これは後に「モラル改革運動」として総称されるようになりました−−−が拡がっていったという「現実」があります。そのモラル改革運動には次のような4つの「特徴」がありました。
1)ビジネスと倫理は正反対なものである、という前提の拒否、
2)ビジネス組織の幅広い「社会的」責任を強調する、イッシュ−・マネジメントの出現、
3)ビジネスをモラル化する手段としての政府規制の拒否、
4)組織としてのモラル行動の改善を目指した統制手段の探求。
 
 このことは相次ぐ企業絡みのスキャンダル(例えば、大がかりな買収事件、不法な政治献金、航空機災害の多発、欠陥自動車に代表される手抜き生産の発覚、等々)に 対して、企業が対応を迫られた「結果」ではありますが、その後次第に、資本主義企業活動にも倫理的(モラル的)なものが必要である、という認識が生まれ拡がっていく「契機」ともなりました。そして今日では、そのような認識及びそれを反映した「一定の」行動は決してアメリカ企業だけに固有のものではなく、ヨ−ロッパの多くの国々においても見られるようになり、また日本でも「企業社会における倫理の在り方」に大きな関心が寄せられるようになってきました。
 
 このようにビジネス・エシックスはアメリカにおいても日本においても、企業の非倫理的行動(=会社の不祥事)の多発という「ネガティブな」現象を介してではありますが、「企業の在り方」が問われるなかで生じたものであり、ヨリ具体的にいえば 、企業は社会的存在であるといわれる場合、その「社会性」とはいかなる意味なのか、が問われるなかで、ビジネス・エシックスは学問として生まれ「市民権」を得てきたのです。それ故に、ビジネス・エシックスは(かって1970年代に流行した)社会的責任論の流れの中で捉えられることがあります。だがそれは「皮相的な」認識であり、たとえビジネス・エシックスにそのような「一面」があることを否定できないとしても、ビジネス・エシックスは社会的責任論とは一線を画する学問です。従前の社会的責任論では企業の在り方を good な方向へと変えることはできない、という「厳しい」現状認識のもとで生まれてきたのがビジネス・エシックスだったのです。
 ビジネス・エシックスは現在の我々にいかなることを問いかけているのでしようか。
 

 ビジネス・エシックスの基本問

 ビジネス・エシックスは応用倫理学の1つです。応用倫理学としては、他に、バイオ・エシックス(生命倫理学)、環境倫理学、等々がすでに社会的に認知されています。倫理学とは、ものごとの「善悪」「正誤」を考える学問であり、人間社会の誕生以来、我々の生き方に大きな影響を与えてきました。そのような歴史(実績)があるのに、いまなぜ「新しい」(応用)倫理学が必要になってきたのでしょうか。それは、これまでの「判断基準」では対応できない問題が次々に出現してきたからです。例えば、医療技術の発達は臓器移植を可能にし、人間の「死」の基準を変えました。心臓死から脳死へと。だが「脳死」は誰によっていかなる基準で「判定」されるのでしょうか。人間の「生と死」を巡って様々な議論が展開され� ��います。また、自然環境の破壊がこれまでの「予想」を遙かに超えて進みつつある現状に対して、我々人類が「種」として生存していくためには限りある自然環境といかに「賢く」共存していけばよいのか、が大きな問題となり、現在−−−次世代への責任を含めて−−−「新しい」対応が求められるようになってきました。このような我々の既存の知識体系では処理できない(従来の価値基準が意味を持たない)多数の問題の出現が「応用」倫理学という「新しい」学問領域を必要としているのです。
 
 このことは企業とその活動(⇒ビジネス)にも当てはまります。企業は我々の生活にとって不可欠の存在ですが、本来から言えば、それは人間活動の「特殊な」領域であり、いわば我々の場(市民社会)の「一」部分を構成� ��る存在にすぎないものであり、との認識が「一般的」であり、そのように理解してきてもそのことによって(市民社会全体に大きな影響をあたえる、という意味での)「大きな」問題は−−−もちろん、資本家と労働者の間の「利害対立」に関連して、深刻な問題があり、それは現在も続いていますが−−−と生じなかったのです。しかも企業の「自由な」活動の成果として、我々は「大きな」利益(⇒生活水準の向上)を享受してきたために、いわば「餅は餅屋」的に、企業活動は専門家である企業家(⇒経営者)に任せておけば「間違いがない」という考え方が「大方の」意見でした。
 
 しかし「そのような考え方は間違いではなかったのか」という「反省」が次第に広がってきました。これは、企業社会(⇒ビジネス)が� ��民社会を次第に大きく「蚕食」し、企業本位社会といわれるように、我々の生き方のあり方を決定的に規定するようになるにつれて段々と強くなり、更に加えて企業活動が我々の生活の様々な側面に「悪」影響を及ぼすことが様々な出来事(企業の不祥事といわれているもの)を介して明白になってくると、大きな「流れ」となってきました。そしてここに企業のあり方を何らかの形で「統制・制御」しなければならない、という「思想」が生まれてきました。もちろん、これまでも企業活動は政府(⇒法律)によって規制され、一定の成果を上げてきました。しかしそれだけでは不十分である−−−これが現在の「支配的な」現状認識なのです。逆に言えば、それだけ企業の存在が「巨大なもの」になってきたということなのであり、� �新しい」ル−ルのもとで企業活動を展開していかなければ我々の市民生活そのものが「破綻」してしまうのではないか、との「恐れ」が現実化するようなところまで事態が進んでいる、ということなのです。

 モラル主体としての現代企業

2012年5月8日火曜日


それは豊富な供給のカジュアルや家族のレストランはどこでも見てあるかのように思われるが、余分な特別な夜に誰かを治療する場合高級ワイン、空想フード、そして静かな雰囲気に適した場所を見つける作業 非常に難しくなる。幸いにも住民やバーリントン、オンタリオ州への訪問者のために、市は、エレガントな夜持ってお探しの方にいくつかのオプションを提供しています。

2012年5月6日日曜日


見渡す限りの大草原が広がる国モンゴル。
一方北部には夏でも雪を頂く3000m級の山々が連なっている。
その麓には豊かな水と緑にあふれた美しい光景が広がっている。
広大なダルハド(Darkhad)盆地に暮らす人々は、2000年以上も前から遊牧生活を営んできた。
モンゴルの広大な草原には、悠久の歴史が刻まれている。

12世紀に現れたチンギス・ハーンはそれまで小さな部族が群雄割拠していたモンゴル高原を統一。
孫のフビライ・ハーンの時代には、東は朝鮮半島から中国全土、西はヨーロッパに及ぶ巨大な帝国を作り上げた。
しかしその後帝国は分裂。
1755年、清朝に支配され、1924年、社会主義国家として独立、1930年代、民主主義国家へ移行。

人口およそ250万人の内、3分の1以上が首都ウランバートル(Улаанбаатар Ulaanbaatar)に住み、現代的な生活を送っている。
しかしモンゴルの人々の基本的な生活様式は遊牧。
環境が異なる地域で、それぞれに特徴的な遊牧生活を送っている。
今回モンゴルを訪れたのは東京大学の月尾嘉男名誉教授。
情報通信が専門だが、世界中を探訪する中で、自然の大切さを痛感。
環境問題の解決に挑戦している。

目指すはウランバートルから北西におよそ1000km、ダルハド盆地。
周囲を3000m級の山々に囲まれ、東京都の面積のおよそ1.6倍もある。
ここは周りの山々から湧き出た水が、沢や川となって集まる場所。
また山々に降り積もった雪が春先には雨をもたらす。
こうした自然が肥沃な草原地帯を育んできた。
この豊かな自然の中で、遊牧生活をしている人々を訪ねる。

サンボーさん(71歳)は子供達や孫、兄弟など6家族、26人と暮らしている。
彼らはゲルと呼ばれる移動式住居に家族単位で住み、助け合いながら生活している。
こうした集団はホトアイル(家族や親類、仲間同士で構成される共同体)と呼ばれている。
所有している家畜は6家族あわせておよそ550頭、育てた家畜の毛皮や肉を売ることで収入を得ている。
毎日行う放牧は当番制。
6家族の中から誰かが交代で家畜の見張りをすることで、仕事の負担が減らせる。
今は夏休みなので、普段は町に住んで学校に通う子供たちも家に戻っている。
モンゴルでは、いつどんな客が訪ねてきてもまずお茶を出すのが習わし。
その日絞ったばかりの牛乳に、直接お茶の葉を入れて作るモンゴル式ミルクティー。

月尾「サンボーさんの一族は、いつごろからここで遊牧しているのですか?」
サンボー「約200年前から。
私の祖先はエルヒードと呼ばれる氏族で、元々はここから南西の方角にある県に住んでいた。
そこにいた老人が7人の子供を連れてこの地に移り住み、その子孫が私達だと伝わっている。
私達は遊牧民なので元々この地に住んでいた人は少ないと思う。
いろいろな場所から人がやってきてここに住み始めたのだ。」

朝4:30、ダルハド盆地に暮らす遊牧民達の夏の1日が始まる。
女性達が牛を囲いの中に追い込むと、子牛達が乳を飲み始める。
吸い始めて乳の出が良くなった頃に子牛を引き離して搾乳。
こうするとスムーズに搾り出せるという。
月尾「1頭からどれくらい搾れるのですか?」
三女ハグワスレンさん「ハイナグから4リットル、ヤクからは1〜2リットルくらい。
ヤクの乳には脂肪分が多く含まれている。」
夏は乳の出が良く、1日に20リットルも搾れる。
乳搾りが終わると牛達は草原へ、好きな場所で草を食べ、日が暮れると勝手に帰ってくる。

2012年5月5日土曜日


参考資料:
#

「フィデル・カストロ」イグナシオ・ラモネ著/年表

「カストロの道」K.S.カロル著
「LA TIENDA NEGRA」Maria Eulalia Douglas著、その他


 印字:茶=米国緑=旧ソ連、映画関係=青

1月 「計画の年」宣言:第1次4ヵ年計画がスタート。

だが、亡命者続出による技術者不足、資材不足、部品不足、生産ストップ、物資の欠乏という悪循環によりまもなく挫折。

   キューバ国内で本格的な破壊活動が始まる。製油所、鉄道、製糖工場のほか、映画館やデパートなど一般市民の集まる場所にまで無差別テロ。内務省調査では、8月までに5780件の破壊工作があり、数百人の犠牲者を出す。

1月31日 キューバ、米州機構(OAS)から除名される。

       (米、キューバの孤立化を意図)

2月3日 ケネディ、対キューバ全面禁輸(食料と医薬品のみ除外)
     キューバを支援する第三国への援助停止も指示
  4日 「第2次ハバナ宣言」
     ラテンアメリカ諸国に武装革命路線を呼びかける。

     (武力による国際主義)        
2月 米艦隊がキューバの海岸線を包囲し威圧する。
キューバは、米国がピッグス湾事件に次ぐ第二の侵攻計画を立てているとし、米国の攻撃について議論するため緊急安保理事会の開催を求める。

(27日否決)

★ICAIC, 招待をキャンセルされた東ドイツへの連帯を示すため、第8回オベルハウゼン国際短編映画際への参加を取止める。

2012年5月3日木曜日


2007年11月3日。この日、生きた生物が初めて宇宙空間を飛行してちょうど半世紀を迎えた。1957年11月3日午前2時30分(世界時)、ソ連中央アジア・バイコヌール宇宙基地から打ち上げられたR−7ロケットには1匹の犬が乗せられていた。「ライカ」と呼ばれるその犬は、世界で最も有名な犬の一匹である(下)。

ライカは宇宙を初めて飛行した生物であるが、そのことよりもむしろ、その悲劇的な最後で人々の関心を惹いてしまう。当時は大気圏外からの帰還技術が無く、ライカはいわゆる"特攻"だったのだ。

ちなみにウェッブサイトの運営でアクセス解析を行っていると、訪問者がどのようなキーワードでやってくるのかよく把握できる。検索エンジン経由で当サイトへ立ち寄った方が最も用いて� �る単語は、実は「スプートニク2号」「ライカ犬」だ。長い間、この傾向は安定して変わらない…これほどまでに関心が高いのかと、改めて思わされる。

逆にこれらのキーワードで検索をかけると、犬好きな方々のウェブサイトやブログに多数出会う。彼らの関心はライカが生きて帰れなかったことに集中しているが、それは当然の反応と言える。筆者もかつて、ライカがどのような最後を迎えたのか気になっていたことがあった。

以前、ソ連が初期に行っていた犬の弾道飛行実験についてまとめたことがある。当サイトの「スペースドッグ・犬の話」がそうであるが、そこではライカ犬以前の話をご紹介した。そこでここでは、ライカそのものを軸に話をまとめてみることにしたい。(追記[10.31.2008]: 当時の我が国の報道を辿ったコラムをこちらに書いております)


ソ連宇宙開発を主導していたセルゲイ・コロリョフは、かなり早い段階から生物を宇宙空間へ打ち上げることを目標とし、それに備えた研究と実験を指揮していた。それは戦後間もない1949年に遡り、この時、モスクワの空軍医学研究所に勤務していたウラジミール・ヤツドフスキー(Vladimir A. Yazdovsky)青年をヘッドハント、コロリョフの直属グループのトップに彼を据え、宇宙空間における生体研究を開始している。

ヤツドフスキーらは研究を行う上でどのような動物が適しているかを検討、1950年12月、犬の使用が正式に決定された。

なぜ犬が使用されることになったのか、具体的に目指していたリサーチは何だったのか、そして何が行われたのか…それらは「スペースドッグ」で記したので、ここでは省略することにする。1950年代の半ばになると、地球周回飛行が現実味を帯び始め、犬たちの訓練にもそれへ向けたメニューが盛り込まれるようになった。(右・1954年のコロリョフ)

1957年10月4日、人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功すると、コロリョフらにし� ��しの休暇が与えられた。しかしこの日を境に、事態は急展開したのであった…。


スプートニク1号はモスクワ時間の深夜に打ち上げられた。ソ連を率いていた共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが成功の報を受けたのは就寝しようとしていた頃だったといい、淡々と「そうか、よかったな」とだけ答えて電話を切ったと伝えられている。

だが、一夜明けて世界中が大騒ぎになっていることを知り、初めて人工衛星の意味を悟ったフルシチョフ。彼は休暇へ出ていたコロリョフをモスクワへ呼び戻すと、その偉業を称え、こう言ったという。

「君たちがアメリカより先に人工衛星を打ち上げるとは思ってもいなかったよ。よくやってくれたよ、同志。そこでなのだが、来たる革命記念日までに何か目立つものを打ち 上げてくれないかね。」

何と調子のいいフルシチョフ。しかも革命記念日(11月7日)まで1ヶ月もないのだ。

だがコロリョフはしばしの検討の後、それを引き受けてしまった。しかも、犬を乗せることを確約したのだ!

コロリョフは自分の部下や同僚らに、自分がモスクワへ呼ばれ、そこでフルシチョフがご満悦であったことを語っている。犬を乗せる件は訓練の進行状況を検討した結果、可能と判断したようである。第1設計局へ戻った彼の最初の仕事は、保養地に出かけた開発チームへ即戻るよう命令を下すことだった。

10月12日までには、全員そろったという。面々を前に、コロリョフはこう伝えた。

「これから革命記念日までに、もう1機衛星を打ち上げる。それには、犬を乗せる。」

それ� ��で全く休み無しで働いていた設計局のメンバー。休暇をうち切られ、最初に聞いた言葉がこれだった。

ごく一握りの幹部以外は初めて耳にするプロジェクト。犬を飛ばすとは…しかもあと1ヶ月もないのだ!

コロリョフは続ける。

「これはフルシチョフ同志から直々に受けた命令だ。勿論時間が無いことはわかっている。公式ドキュメントなど書いている余裕はない。そこで、今後は私の指示に従って行動して欲しい。」

動揺した者も多かったに違いないが、恐らくコロリョフの放つそのオーラ、そして力強い言葉が、皆の心をひとつにまとめたに違いない。しかも、スプートニク1号の成功が国のトップに絶賛され、強力な支持を得ているのだ。

この瞬間だけは、第1設計局がソ連の中心、いや、世界の中心に あった瞬間だった。

しかしこれは、ひとつの賭でもあった。ロケットの打ち上げや衛星開発…勿論それに限ったことではないが…は、きちんとしたコンセプト、設計図とスケジュール、会議による承認の下で粛々と進められるものである。だがこのプロジェクトには、じっくりとした検討を行いながらタイムラインを定め、図面を引き、それを検討会議にかけて…云々ということをやっている時間はない。

図面がとりあえずできあがると、すぐさま作業工房に持ち込まれ、工作部隊が製作を開始する…そんなハイリスクな突貫工事が行われることになったのだ。

そして恐らく、これまで50年間に行われてきた人類の宇宙開発プロジェクトで、公式会議も経ず、文章も存在しないミッションは、これが最初で最後なのではな� ��だろうか。そもそもゴーサインからして、フルシチョフのいわば"口約束"なのだ。

歴史に残る生物の初飛行の裏側では、こんな"世界初"(そして最後)も達成されたのである。


犬を飛ばすのは、スプートニク1号のような金属球を打ち上げるのとは訳が違う。それは呼吸をすれば、食事も摂るし、排泄もする。きちんとした生命維持装置は不可欠…何せ生きていなければ意味がない。しかし、重量が増したり巨大化したら飛ばせない。

そこで、犬が入るキャビンは簡単な円筒形のアルミ缶とされた。右はモスクワの工芸工科博物館(Polytechnical Museum)に展示してあるモックアップだが、一番下にアルミ缶が、その上に球形の物体、更にその上にランチジャーのような物体が見えている。

アルミ缶は勿論犬が入る気密カプセルで、直径64cm、長さ80cm。中央の球形カプセルはスプートニク1号で使用された無線発信器とバッテリー、その上のランチジャー型の物体は宇宙線・X線・紫外線観測センサーである。球形カプセルの無線発信器はスプートニク1号で用いられたものと同型であるが、「ビーッ、ビーッ」のレートは1号よりやや早い。

一方、各種センサーは宇宙環境の観測を行うもの。このミッションには単に犬を打ち上げるだけでなく、宇宙環境を定量的に把握する目的も抱き合わされていた。人体に影響を及ぼす宇宙線の認識は、延長線上にある有人� �宙飛行を意識してのものであった。

2012年5月1日火曜日


アメリカ人になる  これでいいのか、市民権取得テスト

 

 一生アメリカに住むつもりで日本を離れたので、市民権を取得しようというのは当然のステップでした。アメリカ国民と結婚した場合、三年目にその申し込みができます。アメリカの歴史に関する口頭試問と、簡単な筆記テストがあると聞かされて、毎日のように勉強しました。

 そのころにはシニア・クラークに昇格して、自分のデスクがもらえるようになっていました。フロントに立つのは、通訳が必要になったり、ピンチ・ヒッターを務めるとき程度になってました。

「ね、三権分立ってな〜んだ?」と聞くと、

「え、三権分立なんて知らないわ」

と、バイオレットが笑います。

「わたしだったらそのテスト、絶対受からないね、アメリカ人に生まれてよかった!」

なんてロリーが言ってたけど、こんなふうにオフィスの連中も、一緒になって勉強してくれたのです。

「息子の歴史の本持ってきたよ」

と、ダリーンが本を貸してくれました。ダリーンはハワイの原語でアリイといって、元貴族の家系だとみんなが言ってましたから、カメハメハ大王家の血を引いてることになります。